タイトル:『俺たち、異性だけど最高の「ダチ」で間違いないよな?』
薄暗い空間に、電子音とボタンを弾く派手な打鍵音が響き渡っている。
大学の講義終わり、俺――相沢透(あいざわ・とおる)は、駅前の寂れたゲームセンターの片隅で、格闘ゲームの筐体に向かっていた。画面の中では、俺の操る大剣使いのキャラクターが、相手の隙を突いて豪快なコンボを叩き込んでいるところだった。
「っしゃあ、これで七十連勝……」
一人用のアーケードモードを無心でプレイしていた俺の耳に、突如として『乱入者が現れました』というけたたましいアナウンスが響いた。
対面の席に誰かが座ったらしい。画面の向こう側に気配を感じる。
「ほう、対人戦か。いいだろう、俺の鍛え上げた反射神経の錆に――」
などと心の中で厨二病めいたセリフを呟いたのも束の間。試合が始まった瞬間、俺は眼球が飛び出そうになるほどの衝撃を受けた。
速い。いや、速いという次元じゃない。相手の操る忍者キャラクターが、まるで俺の思考を先読みしているかのように、完璧なタイミングで攻撃を差し込んでくるのだ。
「は? ちょ、おま……そこでそのガードキャンセルはエグいだろ!」
俺の渾身の起き上がり攻撃はあっさりとスカされ、そのまま画面端へと追い詰められる。怒涛の空中コンボ。ゲージを全消費した超必殺技の演出が画面を埋め尽くし、俺のキャラクターは断末魔と共に沈んだ。
「……嘘だろ、俺がパーフェクト負け?」
呆然と画面を見つめていると、対面の席からガタッと立ち上がる音がした。
俺はどんな凄腕のゲーマーが座っていたのかと、筐体の横から顔を覗かせた。そこに立っていたのは、屈強な男でも、眼鏡を光らせたオタクでもなかった。
「あははっ! いやー、いい勝負だった! お兄さん、あのタイミングで中段攻撃振ってくるのはなかなかセンスあるよ!」
ショートボブの髪を揺らし、オーバーサイズのパーカーを着込んだ小柄な女子大生だった。
屈託のない笑顔で、俺に向かってサムズアップをしてくる。
俺は口をパクパクさせながら、目の前の現実を処理しようと努めた。
「……お前、女だったのか? いや、それより今のコンボの入り方、人間業じゃなかったぞ。フレーム単位で目押ししてただろ」
「あー、気づいちゃった? 実は昨日、徹夜でトレモ(トレーニングモード)に引きこもって練習したんだよねー。脳のシナプスが格ゲーに最適化されてるから!」
「どんな女子大生だよ。普通の女子大生はカフェでパンケーキの写真を撮ってインスタに上げるんだよ。ゲーセンで男をボコボコにして喜ぶな」
「パンケーキより相手のHPゲージ削る方がドーパミン出るっしょ!」
彼女――星野結衣(ほしの・ゆい)との出会いは、そんな異常なものだった。
普通なら「なんだこいつ」で終わるはずだった。だが、俺のゲーマーとしてのプライドが、このまま引き下がることを許さなかった。
「……もう一戦だ。次は俺が勝つ」
「おっ、言うねえ! 受けて立つよ。百円玉のストックは十分か?」
そこから、俺たちは閉店時間まで狂ったようにお互いの百円玉を筐体に吸い込ませ続けた。勝ったり負けたり、時には筐体越しに「今のズルいだろ!」「そっちこそ判定強すぎ!」と文句を言い合いながら、気づけば外はすっかり暗くなっていた。
「あー、腹減った……」
ゲーセンを出た瞬間、結衣が腹を押さえてしゃがみ込んだ。
「お前、三時間ぶっ通しで格ゲーしてりゃそうなるだろ。俺も限界だ」
「ねえねえ、透だっけ? この近くのファミレスで打ち上げしようぜ。もちろん、今日の対戦結果の反省会も兼ねて!」
出会って数時間だというのに、彼女はすっかり俺を長年の友人のように扱っていた。その距離感の近さに少し戸惑ったが、不思議と嫌な気はしなかった。
ファミレスのボックス席に座るなり、結衣はハンバーグとドリアと山盛りポテトを注文した。
「……お前、フードファイターか何かなの?」
「脳を酷使したからカロリーが必要なんだよ。透はそんなちっぽけなパスタで足りるわけ?」
「俺は燃費がいいんだよ。お前こそ、そんなに食ってよくその体型維持できるな」
「それはね、息をするだけでカロリーを消費する特異体質だからさ!」
「ただの基礎代謝おばけじゃねえか」
会話のテンポが、異常なほど噛み合う。
俺がツッコミを入れると、結衣はケラケラと笑いながらさらにボケを重ねてくる。まるで長年コンビを組んでいる漫才師のような心地よさがあった。
ゲームの話から始まり、大学のくだらない講義の話、好きな漫画の話。どれを取っても、彼女との会話は途切れることがなかった。
「……なんか、透といるとめっちゃ話しやすいわ。私、女子特有の『わかるー』って言い合うノリが苦手でさ」
ドリンクバーのメロンソーダをストローで啜りながら、結衣がふと言った。
「俺もだよ。男同士でバカ話してる方が性に合ってる。お前、中身完全に男だろ」
「失礼な! これでも心は乙女なんだからな! まあ、透のことは完全に『気の合う男友達』枠に認定したけどね!」
「奇遇だな。俺もお前のこと『最高のゲーム仲間のダチ』としか見てない」
グラスを掲げて、俺たちは笑い合った。
まさかこの数時間で、ここまで気が合う人間に出会えるとは思わなかった。しかもそれが、異性だなんて。
だが、俺たちに性別の壁など関係なかった。これは純度百パーセントの「友情」だ。
「よし、透! これからも私のスパーリングパートナーとして、ビシバシ鍛えてやるから覚悟しろよ!」
「上等だ。次こそはお前のそのドヤ顔を泣き顔に変えてやるからな」
ファミレスの深夜照明の下、俺たちは固い握手を交わした。
最高のダチができた。この時はただ、純粋にそう信じて疑わなかったのだ。
大学の昼休み。学生たちでごった返す大食堂は、今日も熱気と喧騒に包まれていた。
俺は食券機の前で、前の人間が食券を買うのを待っていた。その後ろから、ひょっこりと顔を出した結衣が、俺の肩をトントンと叩く。
「なぁ透。今日の私のランチ、何だと思う?」
「知るかよ。どうせまた、炭水化物に炭水化物を重ねるような狂気のメニューだろ」
「ふっふっふ、甘いな。今日はヘルシー志向だよ。カツカレー大盛りに、きつねうどん。さらにデザートのチョコパフェだ!」
「どこがヘルシーなんだよ! カロリーの暴力じゃねえか! お前の胃袋はブラックホールか何かに繋がってんのか?」
「カレーはスパイスだから実質ゼロカロリー。うどんは消化がいいからマイナスカロリー。パフェは冷たいからカロリーが凍って消滅する。完璧な計算だね」
「お前の脳みその方が凍って消滅してんじゃないのか? 栄養学の教授が聞いたら泣いて土下座するレベルの暴論だぞ」
「うるさいなー、私の胃袋は私の自由だ! ほら、早く食券買って!」
結衣に背中を押されながら、俺はため息をついて自分の分の生姜焼き定食のボタンを押した。
あの日、ゲーセンで出会ってからというもの、俺たちは大学でも常に行動を共にするようになっていた。講義の空き時間はもちろん、昼休みも、放課後も、休日のゲームも、常に一緒だ。
トレイに山盛りの食事を乗せた結衣と共に、空いているテーブルを見つけて向かい合わせに座る。
「いただきまーす! ん〜、このカツのサクサク感がたまらん!」
幸せそうな顔でカツカレーを頬張る結衣の口元に、カレーのルーがべったりとついている。
「おい、アホ。口の周りにカレーついてるぞ。幼稚園児かお前は」
「えっ、マジ? どこどこ?」
結衣が舌を出して舐めとろうとするが、まったく見当違いの方向を舐めている。見かねた俺は、テーブルにあった紙ナプキンを手に取り、無言で彼女の口元を拭ってやった。
「ん、サンキュ、透。お前ほんと、おかんみたいだな」
「誰がおかんだ。お前が手のかかるガキすぎるだけだろ」
そんなやり取りをしていると、隣のテーブルに座っていた同じ学部の友人、佐藤がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「お前ら、今日も夫婦漫才やってんなー。もうさっさと付き合っちゃえばいいのに」
その言葉を聞いた瞬間、俺と結衣は顔を見合わせ、同時に口を開いた。
「「いやいやいや、ただのダチだから!」」
見事なハモリだった。佐藤はビクッと肩を揺らし、呆れたように苦笑いする。
「息ピッタリじゃねえか。でもさ、毎日一緒に昼飯食って、休みの日は朝から晩まで一緒にゲームしてんだろ? それ、世間一般では『付き合ってる』って言うんだぜ?」
「世間の基準を俺たちに当てはめないでくれ。こいつはただのゲーム友達であり、サンドバッグであり、大食いモンスターだ」
「サンドバッグってなんだよ! 私の方が勝率高いだろ! それに、私にとって透はただの『便利なツッコミマシーン兼お財布』だから!」
「お財布ってなんだテメェ。昨日のジュース代、まだ返してもらってないからな」
「あれ? 記憶にございませんねぇ」
結衣がわざとらしく目を逸らしながらうどんをすする。俺は彼女の頭を軽く小突いた。
「ほら、見ての通りだ。俺たちに色恋沙汰なんて微塵もない。男同士の熱い友情だよな?」
「おうよ! 私たちは魂のブラザーだからな!」
結衣がカレーのスプーンを持ったままガッツポーズをする。
佐藤は「はいはい、ごちそうさま」と手をひらひらさせて去っていった。
周囲からはどう見えようと、俺たち本人が一番よく分かっている。恋愛感情なんて甘っちょろいものは、俺たちの間には存在しない。お互いのダメなところを知り尽くし、気兼ねなくバカを言い合える、ただの「親友」なのだ。
「それにしても、透の生姜焼き美味しそうだなー。一口ちょうだい」
「お前、自分の分だけでも致死量のカロリーあるのにまだ食うのかよ」
「隣の芝生は青く見えるっていうじゃん? はい、あーん」
結衣が自分の箸を俺のトレイに伸ばし、生姜焼きの肉を一切れ奪い取っていく。
「あ、こら! 俺のメインディッシュを!」
「ん〜! うまっ! 代わりに私のうどんの油揚げあげるから許して!」
「ふざけんな、等価交換になってねえよ! 肉返せ!」
「もう胃袋の中だよーん」
ケラケラと笑う結衣の笑顔を見ながら、俺は大きくため息をつく。
こいつと一緒にいると、本当に疲れる。ツッコミの回数が多すぎて、俺の脳細胞が過労死しそうだ。
でも、不思議と嫌じゃない。むしろ、このくだらないやり取りがない日常なんて、今では想像もつかなかった。
「透、今日の放課後は新作のFPS(ファーストパーソン・シューター)やろうぜ! お前、私の背中しっかり守れよ!」
「お前が突っ走りすぎて自爆するから俺がカバーしてやってんだろうが。少しは戦術ってものを学べ」
「戦術? 『弾を撃ちまくって全部当てる』が最強の戦術でしょ?」
「脳筋すぎる……」
他愛のない会話が、昼休みの終わりを告げるチャイムの音にかき消されていく。
俺たちは席を立ち、いつものように肩を並べて午後の講義へと向かった。
この最高の「友情」が、いつまでも続くのだと信じて。
窓ガラスに打ち付ける激しい雨の音が、部屋の中にまで響いていた。
時刻は深夜二時。俺のアパートの狭いワンルームには、テレビモニターの青白い光だけが不気味に浮かび上がっている。
「っしゃあ! ラスボス撃破! 見たか透、私の神エイム!」
床に座り込んでコントローラーを握りしめていた結衣が、両手を高く突き上げて歓声を上げた。
「お前、最後の最後で回復アイテム全部使い切りやがって。俺がヘイト稼いでなかったら全滅してたぞ」
「結果良ければすべてヨシ! いやー、十時間ぶっ通しでやった甲斐があったね!」
俺たちは今日の夕方から、発売されたばかりのサバイバルホラーゲームの協力プレイに没頭していた。気づけば日付も変わり、とっくに終電の時間は過ぎている。
俺は大きく伸びをして、凝り固まった肩を回した。
「さてと、クリアもしたし、お開きにするか。……って、外めちゃくちゃ雨降ってんな」
カーテンを少しめくって外を見ると、バケツをひっくり返したような土砂降りだった。
結衣も窓の外を覗き込み、露骨に嫌そうな顔をする。
「うげー、マジか。私、傘持ってきてないんだけど。タクシー呼ぶのもお金もったいないし……」
「アホか、天気予報くらい見とけよ。仕方ない、今日は俺の部屋に泊まってけ。布団はあるから」
何気なくそう提案した。俺としては、仲の良い男友達を泊めるのと全く同じ感覚だったのだ。
「マジで!? やったー! じゃあ遠慮なくお泊まりさせてもらいまーす!」
結衣は嬉しそうに飛び跳ねると、そのまま俺のベッドの上にダイブした。
「ふはー、透のベッド、柔軟剤のいい匂いする〜」
「おいコラ! お前、人の聖域に土足で踏み込むな! お前は床に布団敷いて寝るんだよ!」
俺がベッドから引き剥がそうとすると、結衣はシーツに必死にしがみついて抵抗した。
「えー! 床固いじゃん! 私、か弱い女の子だよ? そんな酷いことできるの?」
「どの口が言ってんだ。さっきゲームの中でゾンビの頭をショットガンで粉砕しながら爆笑してた女が」
「ゲームと現実は違うの! ねえ透、一緒に寝ようよ。ベッド、セミダブルだから二人でも余裕っしょ!」
「は……? お前、バカ言ってんじゃねえぞ」
俺は思わず動きを止めた。
「男女が同じベッドで寝るって、どういう意味か分かってんのか?」
「え? どういう意味って、ただ寝るだけでしょ? 私たちダチじゃん。男友達と一緒に寝るのと何が違うの?」
結衣はきょとんとした顔で首を傾げている。その無防備すぎる表情に、俺は頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
「お前の中のジェンダー観はどうなってんだよ……。いくらダチでも、生物学的には男と女だろうが」
「透、もしかして私に欲情しちゃう心配してる? あはは、ないない! 透が私を女として見るわけないじゃん!」
バンバンとベッドを叩きながら笑う結衣。
確かに、俺はこいつを女として意識したことは一度もない。常にボケとツッコミを繰り返し、一緒にゲームをしてバカ笑いするだけの存在だ。
「……わかったよ。そこまで言うなら、お前のその無駄な自信を証明してやる。絶対手出しなんかしねえからな」
「おう! 私の貞操観念は鋼鉄だから安心しろ!」
「貞操観念の意味間違って使ってんぞ」
結局、俺たちは背中合わせの状態で、同じベッドに横たわることになった。
部屋の電気を消すと、雨音だけが静かに響く。
……しかし。
「おい、結衣」
「……んー?」
「なんでお前、俺の背中にピッタリくっついてんだよ。暑いんだけど」
「えー、だって寒いじゃん。透、湯たんぽみたいで温かいんだもん」
背中から伝わってくる、柔らかくて華奢な感触。
いつもダボダボのパーカーを着ているせいで気づかなかったが、こうして触れてみると、彼女が紛れもなく「女性」であることを実感させられる。
シャンプーの甘い香りが、俺の鼻腔をくすぐった。
(……落ち着け、俺。こいつはただの結衣だ。ゲームで煽ってくるウザいダチだ)
必死に自分に言い聞かせるが、心臓の鼓動が妙に速くなっているのがわかる。
「透……」
突然、結衣が寝ぼけたような声で俺の名前を呼んだ。
「……なんだよ」
「明日も……一緒に、ゲーム……しよ……」
そのまま、スゥ、スゥ、と規則正しい寝息が聞こえてきた。
どうやら本当に寝てしまったらしい。俺への警戒心ゼロかよ。
俺はそっと振り返り、薄暗闇の中で結衣の寝顔を見つめた。
起きている時は常に騒がしい彼女だが、眠っている時の顔は驚くほど静かで、あどけない。長いまつ毛が頬に影を落とし、少し開いた唇が微かに動いている。
「……マジで、距離感バグりすぎだろ」
誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
俺は彼女を男友達と同じだと思っている。それは間違いない。
でも、もしこれが本当にただの男友達だったら、俺はこんなにドキドキしているだろうか?
「……いや、気のせいだ。これはただの生理的な反応だ」
俺は無理やり目を閉じ、自分に言い聞かせた。
だが、その夜、俺は結衣の温もりと甘い香りのせいで、朝までほとんど一睡もすることができなかった。
週末の土曜日。俺と結衣は、駅前の大型ショッピングモールで待ち合わせをしていた。
今日は結衣のパソコンのパーツを買いに行くという名目で、半ば強制的に付き合わされている。
「あいつ、遅いな……」
時計を見ると、約束の時間を十分ほど過ぎている。いつもなら「ごめーん! 寝坊した!」と騒ぎながら走ってくるはずだが、今日は姿が見えない。
ふと、駅の広場の方に目をやると、見覚えのある小柄な後ろ姿があった。
結衣だ。
しかし、その周囲には、見るからにチャラそうな大学生風の男が二人、彼女を取り囲むように立っていた。
「ねえねえ、これからカラオケ行かない? 俺らとお茶だけでもさー」
「君、めっちゃ可愛いね。服もオシャレじゃん。彼氏とかいるの?」
男たちがヘラヘラと笑いながら結衣に詰め寄っている。典型的なナンパだった。
結衣は困ったような顔で後ずさりしている。
「いや、あの、私これからダチと待ち合わせしてるんで……。それにカラオケとか興味ないんで……」
「ダチって男? 女? 男なら俺らの方が絶対楽しいって! ほら、行こうよ」
男の一人が、強引に結衣の腕を掴もうとした。
その瞬間、俺の頭の中で何かが「プツン」と切れる音がした。
気がついた時には、俺は無意識に駆け出し、男と結衣の間に割って入っていた。
「おい。俺の大事なダチに何の用ですか?」
普段の自分からは想像もつかないほど、低くて冷たい声が出た。
俺の突然の乱入に、男たちはビクッと肩を揺らして後ずさった。
「あ、いや……ただ声かけてただけで……」
「待ち合わせ相手が来たんで。もういいですか? それ以上しつこくするなら、駅員呼びますよ」
俺が鋭い視線で睨みつけると、男たちは「チッ、なんだよ」と悪態をつきながら逃げるように去っていった。
残された俺は、大きく息を吐き出して振り返った。
「おー! 透、ナイスタイミング! マジで助かったわー。あいつらウザくてさー」
結衣はケロリとした顔で、いつものようにヘラヘラと笑っている。
その顔を見た瞬間、なぜか無性に腹が立ってきた。
「お前な……! 少しは警戒心ってものを持てよ! あんなチャラ男について行かれたらどうすんだ!」
思わず声を荒らげてしまった。結衣は驚いたように目を丸くする。
「え、怒ってんの? ついて行くわけないじゃん。透を待ってたんだし」
「そういう問題じゃねえ! だいたいお前、今日の格好なんだよ。なんでそんな短いスカート履いてんだよ! 隙だらけなんだよ!」
俺が指摘すると、結衣は自分の服装を見下ろした。
いつもはダボダボのパーカーにデニムというボーイッシュな格好なのに、今日はなぜか白のブラウスに、膝上丈のプリーツスカートを合わせている。正直、めちゃくちゃ似合っているし、足が細くて綺麗だ。
「えー、だってこれ、前に透が雑誌見て『こういう服、お前も着てみれば似合うんじゃね?』って言ってたやつじゃん。だからわざわざ買ってきたのに……」
結衣が少し拗ねたように唇を尖らせる。
「……は?」
俺は言葉に詰まった。
確かに、一ヶ月くらい前にファミレスで適当に雑誌をめくっていた時、そんなことを言った記憶がうっすらとある。
俺の何気ない一言を覚えていて、わざわざその服を着てきたというのか?
「……そ、それは……」
「せっかく透に見せようと思ってオシャレしたのに、怒られるなんて理不尽だ! 透のバカ!」
結衣はプイッと横を向いてしまった。
俺は激しい自己嫌悪に陥った。俺のせいじゃないか。
それにしても、俺はなんであんなにキレてしまったんだ?
結衣がナンパされていたことに腹が立ったのか? それとも、彼女が他の男にチヤホヤされているのを見て、焦ったのか?
(親友が危ない目に遭いそうだったから、心配しただけだ。当然の反応だろ)
心の中でそう言い訳をするが、胸の奥で渦巻くモヤモヤとした感情は、そんな単純な言葉では片付けられないような気がした。
「……悪かったよ。言いすぎた」
俺は小さくため息をついて、結衣の頭にポンと手を乗せた。
「……ほんとに?」
「ああ。……その服、似合ってるよ。でも、これからは俺と一緒の時以外は着るな。危なっかしくて見てられん」
結衣はパッと顔を輝かせた。
「えへへ、ほんと? じゃあ許してやる! その代わり、お詫びに今日はスタバで新作フラペチーノ奢りな!」
「お前はほんと、食い意地だけは一丁前だな」
俺は苦笑しながら、歩き出した結衣の背中を追いかけた。
彼女の短いスカートの裾が揺れるのを見るたびに、俺の心臓はチクチクと痛みにも似た鼓動を打つ。
「……俺、もしかして……」
芽生え始めたその感情の正体に、俺はまだ気づかないふりをしていた。いや、気づくのが怖かったのかもしれない。
その日、大学の講義に結衣の姿はなかった。
いつもなら朝から「おはよう! 今日の朝ごはんは牛丼特盛!」とふざけたLINEが送られてくるのに、今日はそれもない。
嫌な予感がして電話をかけてみると、数回のコールの後、掠れた弱々しい声が返ってきた。
『……もしもし、透……?』
「おい、お前どうした? 声やばいぞ」
『あー……なんか、熱出たみたい……。三十八度五分……』
「バカかお前は! 季節の変わり目に薄着でうろちょろしてるからだろ。飯は食ったのか?」
『食欲ない……。ゼリーだけ……』
あの大食いモンスターの結衣が食欲がないなんて、よっぽどのことだ。
「わかった。今から講義サボってそっち行く。必要なもんあるか?」
『……透がいれば、それでいい……』
電話が切れる。最後の弱々しい声が、俺の胸を不意に締め付けた。
俺は急いで大学を飛び出し、スーパーでスポーツドリンク、ゼリー、そして消化に良さそうな食材を買い込んで、結衣のアパートへ向かった。
合鍵(なぜか「ゲームしに来る時便利だから」という理由で渡されている)を使って部屋に入ると、結衣はベッドの上で毛布にくるまり、苦しそうに息をしていた。
「おい、結衣。大丈夫か?」
俺が声をかけると、結衣は薄く目を開けた。
「おー……透……。すまん、命の恩人……」
「アホ、喋るな。とりあえず熱測れ。俺は飯作るから」
俺は買ってきた食材をキッチンに広げ、手早く卵とネギのお粥を作った。
部屋中に漂う優しい出汁の香りに、結衣が鼻をヒクヒクさせる。
「……なんか、いい匂いする……」
「ほら、起き上がれるか? 少しでも胃に入れとけ」
俺はベッドの脇に椅子を引き寄せ、お粥の入った器を差し出した。
結衣はのろのろと体を起こすが、手が震えてスプーンをうまく持てないようだった。
見かねた俺は、スプーンを取り上げ、お粥をすくってフーフーと冷ました。
「ほら、あーんしろ」
「えっ……いや、自分で食えるし……」
「いいから口開けろ。こぼされたら片付けるの面倒なんだよ」
結衣は少し頬を赤らめながら、大人しく口を開けた。
一口食べると、彼女の顔にパァッと生気が戻る。
「……うま……。透のお粥、五臓六腑に染み渡る……」
「大げさだな。ほら、次」
数口食べさせると、結衣は満足そうに息をついた。
「透ってさ、ほんと家庭的だよね。お前、絶対いいお母さんになれるよ」
「お父さんと言え。男のプライドを傷つけるな」
「ふふっ……ありがと、透。なんか、透がいてくれて安心した」
結衣は力なく笑い、そのまま薬を飲んで再びベッドに横になった。
数分もすると、薬が効いてきたのか、穏やかな寝息を立て始めた。
俺は空になった器を片付け、再びベッドの傍らに座った。
熱で少し赤く染まった頬。乱れた前髪。いつもはけたたましく喋り倒す口元が、今は無防備に少しだけ開いている。
「……こうして静かにしてると、普通に可愛いんだよな、こいつ」
思わず、そんな言葉が口を突いて出た。
俺はゆっくりと手を伸ばし、彼女の額にかかった前髪をそっと撫でた。
熱い体温が指先から伝わってくる。
その時、結衣が身じろぎをして、俺の手に自分の頬をすり寄せてきた。
「ん……透……」
寝言で俺の名前を呼び、微かに微笑む。
ドクン、と。
俺の心臓が、かつてないほどの大きさで跳ねた。
全身の血が沸騰するような感覚。息が苦しい。
ゲーセンで対戦している時でも、くだらない言い合いをしている時でもない。ただ、彼女が俺の名前を呼んでくれただけで、こんなにも胸が苦しくなるなんて。
「……あー、クソ」
俺は自分の顔を両手で覆い、天を仰いだ。
認めるしかなかった。
俺は、こいつを「男友達」だなんて思っていない。「親友」という便利な言葉で、自分の感情に蓋をしていただけだ。
俺は、星野結衣のことが好きなんだ。
女として、一人の人間として、どうしようもなく惹かれている。
「……遅すぎだろ、俺」
静かな部屋の中に、俺の独り言が空しく溶けていった。
自分の気持ちに気づいてしまった今、もう今までと同じ「最高のダチ」ではいられない。
関係が壊れるのが怖い。だけど、このまま嘘をつき続けるのも限界だった。
俺は結衣の寝顔を見つめながら、静かに決意を固めた。

結衣が風邪から完全に復帰したのは、それから三日後のことだった。
「っしゃあ! 完全復活! 病み上がりの体にカツ丼の肉汁が染み渡るぜ!」
学食でカツ丼をかきこむ結衣は、いつも通りの元気な姿だった。
しかし、俺の方は全くいつも通りではなかった。
「……お、おう。よかったな」
ぎこちない返事しかできない。自分の恋心を自覚してしまってからというもの、結衣の一挙手一投足がいちいち気になって仕方ないのだ。
彼女が笑うだけでドキドキし、手が触れるだけで変な声が出そうになる。
そんな俺の異変に、結衣が気づかないはずがなかった。
「なぁ、透。最近お前、なんかおかしくね?」
カツ丼を飲み込んだ結衣が、箸を突きつけるようにして言った。
「は? 何がだよ」
「私の渾身のボケをスルーする回数が増えてる! 昨日なんて、私が『テストの点数がマイナスだった』って言っても、『そうか』で終わらせたじゃん! お前のアイデンティティの崩壊だぞ!」
「誰がツッコミマシーンだ。俺にも疲れてる時があるんだよ」
「嘘つけ。なんか隠し事してんだろ。私たち、ダチじゃん。隠し事はなしだぜ?」
結衣の「ダチ」という言葉が、今の俺にはチクリと胸に刺さった。
その日の夕方。
講義を終えた俺たちは、帰り道にある小さな公園に立ち寄った。オレンジ色に染まる夕焼け空の下、二人で並んでブランコに座る。
「ねえ、透。私、なんか透に嫌われるようなことした?」
ブランコを軽く漕ぎながら、結衣がぽつりと呟いた。いつものふざけた調子ではなく、どこか不安げな声だった。
「してない。……お前は何も悪くない。俺の問題だ」
「俺の問題って何さ。悩みがあるなら聞くよ? これでも私、聞き上手には定評が……ないけど、頑張って聞くからさ」
結衣が俺の方を向いて、真剣な眼差しを向けてくる。
その真っ直ぐな瞳から、逃げることはもうできなかった。
俺はブランコから立ち上がり、結衣の真正面に立った。
「結衣」
「……ん?」
「俺たち、最高のダチだよな。一緒にいてバカやって、ゲームして、最高に楽しい関係だ」
「うん。世界一のダチだと思ってるよ」
「でも……俺、もう『ダチ』でいるの、無理だわ」
俺の言葉に、結衣の顔からスッと血の気が引いた。
「え……? それって、私ともう遊びたくないってこと……? 縁を切るって……」
「違う! 最後まで聞け」
俺は一歩踏み出し、結衣の肩を両手でしっかりと掴んだ。
「お前のことが、好きだ。親友としてじゃなくて、一人の女として」
夕暮れの風が吹き抜け、公園の木々がざわめく。
結衣は目を見開いたまま、完全にフリーズしていた。口をパクパクさせているが、声が出ていない。
「お前が他の男に声かけられてるのを見て、死ぬほど嫉妬した。お前が熱出して寝込んでる顔を見て、可愛いって思った。もう、俺の気持ちに嘘はつけない」
一気に言い切った。心臓が口から飛び出そうなくらいバクバクしている。
沈黙が痛い。断られるかもしれない。この最高の関係が、俺の勝手な感情のせいで壊れてしまうかもしれない。
それでも、伝えたかった。
数秒の、永遠にも感じられる沈黙の後。
結衣の顔が、夕焼けよりも赤い色に染まっていった。
「……おま、それ、反則……」
「え?」
結衣は両手で顔を覆い、しゃがみ込んでしまった。
「急にそんな、真面目な顔で言われたら……ツッコミようがないじゃんか……バカ……」
「結衣……?」
結衣は顔を覆ったまま、震える声で言葉を紡いだ。
「私だって……ずっと前から、透のこと……ただのダチだなんて、思えなくなってたのに……」
「……マジで?」
「マジだよ! あんなに一緒にいて、優しくされて、好きにならない方がおかしいだろ! でも、透は私のこと男友達としか見てないって思ってたから、ずっと隠してたのに……!」
結衣が顔を上げると、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
俺は安堵と喜びに包まれ、思わずしゃがみ込んで結衣を抱きしめた。
「ちょっ、透!? 外! ここ外だから!」
「うるせえ。俺の彼女なんだから、文句言うな」
「……まだ『はい』って言ってないし」
「じゃあ返事は?」
結衣は俺の胸に顔を押し付けたまま、小さく頷いた。
「……よろしくお願いします。私の、ツッコミマシーン」
「だからその肩書きはやめろっての」
俺たちは抱き合いながら、二人して吹き出した。
親友という殻を破っても、俺たちの根底にあるものは変わらない。
ただ、これからは「最高のダチ」ではなく、「最高の恋人」として、新しい日々が始まるのだ。
あれから一週間。
俺たちは晴れて「カップル」という新しい関係になったわけだが――。
「透! 今日の放課後、駅前のクレープ屋行こうぜ! 期間限定のメガ盛りチョコバナナクレープが私を呼んでいる!」
「お前、昨日もラーメン特盛食ってたよな? 彼氏の前で少しは少食なフリをするとか、乙女心ってものはないのか?」
「彼氏の透くんは私の胃袋の限界を知り尽くしてるから、今さら猫かぶっても無駄でしょ!」
「開き直るな」
大学のキャンパスを並んで歩く俺たちの会話は、以前と何一つ変わっていなかった。
相変わらず結衣がボケて、俺がツッコむ。周りから見れば、相変わらずの「仲の良い男女の友人」にしか見えないだろう。
しかし、決定的に変わったことが一つある。
「おい、結衣」
「ん?」
「そこ、手繋ぐとこだろ」
俺が右手を差し出すと、結衣は顔を真っ赤にして後ずさりした。
「い、いやいやいや! こんな真昼間のキャンパスで手繋ぐとか、公開処刑じゃん! 恥ずかしいだろ!」
「付き合ってるカップルが手繋ぐのなんて普通だろ。ほら、手出せ」
「む、無理! だって私、今絶対手汗かいてるもん! コントローラー握りすぎた後の手みたいになってるから!」
「どんな例えだよ。俺は気にしねえから、ほら」
強引に結衣の手を引き寄せ、指を絡めてしっかりと握りしめる。
結衣の手は確かに少し湿っていたが、体温が直接伝わってきて、ひどく愛おしく感じた。
「……透のバカ。心臓もたないっての……」
結衣がうつむきながら、俺の腕にギュッと寄り添ってくる。
こういう不意打ちのデレを見せられると、俺の方まで照れくさくなってしまう。
「お前ら、ほんと付き合ってからバカップル度が増したな」
正面から歩いてきた友人の佐藤が、呆れたような顔で俺たちを見ていた。
「お前ら『絶対付き合わない、ただのダチだ』って豪語してたよな? 前言撤回か?」
「うるせえ。人間は進化する生き物なんだよ。俺たちは『ダチ』から『最高の恋人』へクラスチェンジしただけだ」
「そうそう! 透のツッコミスキルも彼氏補正で攻撃力アップしてるからね!」
「お前ら、相変わらず息ピッタリだな……。まあ、お幸せに」
佐藤が苦笑しながら去っていくのを見送った後、俺たちは顔を見合わせて笑い合った。
「なんか、佐藤に公認されると変な感じだな」
「だね。でも、私、今めっちゃ幸せだわ」
結衣が繋いだ手をぶんぶんと振り回しながら、満面の笑みを向けてくる。
俺も、今まで生きてきた中で今が一番楽しいと断言できる。
気を使わず、素の自分でいられて、一緒にバカをやれる。それでいて、お互いを誰よりも大切に思っている。
こんな理想的な関係、他に探しても見つかるわけがない。
「あ、そうだ透。今日の夜、また例のサバイバルゲームの続きやろうぜ! 今度は絶対私がノーダメージでクリアしてみせるから!」
「お前、前回も同じこと言って開始五分でトラップに引っかかって死んでただろ」
「今日は違う! 愛の力で私のエイムは研ぎ澄まされている!」
「ゲームに愛を持ち込むな。まあいい、受けて立ってやるよ。その代わり、負けた方は今度のデート代全額奢りな」
「上等! 私の財布は透の金で潤うことになるな!」
俺たちは軽口を叩き合いながら、夕暮れの帰り道を歩いていく。
ふと、人通りの少ない路地に入った時。
俺は立ち止まり、結衣の手を引いて自分の方へ振り向かせた。
「え、何……?」
結衣が不思議そうに見上げる。
俺は何も言わず、彼女の頬に手を添え、そっと唇を重ねた。
ほんの一瞬の、触れるだけのキス。
「……っ!」
結衣は目を丸くして硬直し、数秒後に顔から火が出るほどの勢いで真っ赤になった。
「な、ななな、なんだよ急に!」
「……なんだよ、その顔。文句あるのか?」
「文句っていうか……透の顔も真っ赤で面白いから、つい……」
「うるせぇ。お前が可愛いのが悪い」
「か、かわっ……! バカ! アホ透!」
照れ隠しで俺の腕をポカポカと叩いてくる結衣。その力は全然痛くなくて、むしろ心地よかった。
最高の親友は、最高の恋人になった。
これから先、喧嘩もするだろうし、くだらないことで言い合うことも山ほどあるだろう。
でも、俺たちなら絶対に大丈夫だ。
だって俺たちは、世界で一番気が合う、最高の相棒なのだから。
「ほら、帰るぞ。ゲームの準備しねえとな」
「おう! 今日こそ透をギャフンと言わせてやるからな!」
繋いだ手を強く握り返し、俺たちは明日へと続く道を歩き出した。
【完】