タイトル:『俺たちは「最高のダチ」だと信じて疑わないが、周囲からは完全に夫婦扱いされている件』

春。新しい出会いの季節だとか、運命の交差点だとか、世間の奴らは口を揃えてそんなポエムみたいなことを言う。だが、俺こと相沢悠太(あいざわゆうた)にとって、大学の入学式なんてものは単なる「面倒くさい式典」でしかなかった。
桜の花びらが舞い散るキャンパスは、サークルの勧誘で溢れかえり、新入生たちはどこか浮き足立っている。俺はそんな喧騒をスルーして、さっさとガイダンスが行われる大講義室の片隅に陣取った。
「あー、早く帰ってゲームしてぇ……」
誰に聞かせるわけでもない独り言をこぼし、机に突っ伏そうとしたその時だった。
「ちょっ、待って! 落ちる、落ちるってばあああっ!」
突如、真横から凄まじい悲鳴が聞こえた。
驚いて顔を上げると、隣の席に座ろうとしていた女子が、抱え込んでいた大量のプリントやペンケース、挙句の果てには謎のぬいぐるみまでを盛大にぶち撒けているところだった。スローモーションのように宙を舞う文房具たち。俺の足元に、カランコロンと音を立てて一本の赤いボールペンが転がってきた。
「あー……大丈夫か?」
俺はため息をつきつつ、足元のボールペンを拾い上げて彼女に差し出した。
その瞬間、俺は少しだけ息を呑んだ。
肩口で切り揃えられた艶やかなショートボブ。ぱっちりとした大きな瞳は、どこか小動物を思わせる愛嬌がある。春らしいパステルカラーのカーディガンを着こなす彼女は、間違いなく「美少女」の部類に入る容姿をしていた。
だが、その美少女は俺からペンを受け取ると、突如として両手で俺の手をガシッと握りしめ、目をキラキラと輝かせたのだ。
「ありがとう、命の恩人! 君がそのペンを拾ってくれなかったら、私は今日のガイダンスのメモを血文字で残さなきゃいけないところだった! これで世界は救われたよ!」
「ペン一本で救える世界、どんだけ脆いんだよ。ていうか血文字ってなんだよ、ホラーか」
俺が即座にツッコミを入れると、彼女はパチクリと瞬きをした後、ニカーッと太陽のように笑った。
「えっ、君すごい! 今のツッコミ、キレッキレじゃん! ねぇねぇ、私とコンビ組まない? M-1目指そうよ!」
「なんで大学初日で相方探してんだよ! 友達探せよ!」
「友達なら今できたじゃん。私、星野結愛(ほしのゆあ)! 君は?」
「……相沢、悠太」
「おっけー、悠太ね! よーし、これで私の大学生活の第一歩は『最高の相方兼ダチをゲットする』でコンプリートだ!」
出会ってわずか一分。俺のパーソナルスペースに土足で踏み込んできたこの星野結愛という女は、見た目の可憐さとは裏腹に、中身は完全に関西のノリを持ったハリケーンだった。
その後もガイダンス中だというのに、彼女のボケは止まらなかった。
「見て悠太、あの教授の頭、完全に磨き上げられたビリヤードの球だよ。八番って書きたくない?」
「やめろ、退学になるぞ」
「じゃあ私の頭に『1』って書いてもいいよ!」
「お前が的になってどうする」
そんなくだらない会話をひたすら小声で繰り返しているうちに、俺は不思議とこの状況を楽しんでいる自分に気づいた。初対面の女子に対してこんなに気を遣わずに話せるなんて、今までの俺の人生ではあり得ないことだった。
ガイダンスが終わり、キャンパスのベンチで二人して缶コーヒーを飲んでいる頃には、俺たちはすっかり十年来の親友のような空気を醸し出していた。
「いやー、悠太のツッコミは五臓六腑に染み渡るね。私、今日から君のこと『マイ・ベスト・ダチ』って呼ぶわ」
「ダサいからやめろ。普通に相沢でいい」
「えー、じゃあ悠太。私のことは結愛って呼んでいいよ! 親友の特権!」
屈託なく笑う彼女の顔を見ていると、なんだか調子が狂う。だが、悪くない。
「わかったよ、結愛。……これから四年間、お前のボケの処理班として苦労しそうだな」
「任せたよ、相棒!」
こうして、俺と結愛の「最高の友情」は幕を開けた。お互いに微塵の恋愛感情もなく、ただ純粋に「こいつと一緒にいると死ぬほど面白い」という理由だけで。この時の俺たちは、この軽快な漫才のような関係が、後々周囲を巻き込む壮大なラブコメに発展するとは夢にも思っていなかったのだ。
大学生活が始まって半年が過ぎた秋。俺と結愛は、すっかりキャンパス内で「いつも一緒にいる漫才コンビ」として定着していた。
講義を並んで受け、昼休みは学食で同じメニューをつつき、放課後は駅前のファミレスで何時間もだべる。それが俺たちの日常だった。
今日も今日とて、俺たちはいつものファミレスのボックス席に向かい合って座っていた。
「ねぇ悠太、聞いてよ。今日の私、究極の選択を迫られてるの」
結愛がメニュー表を眉間にシワを寄せながら睨みつけている。その深刻な表情は、まるで国家の存亡を賭けた決断をしているかのようだ。
「どうせ『チーズインハンバーグにするか、ドリアにするか』だろ」
「なんで分かったの!? 悠太、ついに私の心が読めるエスパーに進化したの!?」
「お前がこの店に来るたびにやってる茶番だからだよ。いい加減覚えろ」
「違うの! 今日はさらに『パフェを追加するか否か』という第三の勢力が介入してきてるの! これは三国志だよ、悠太! 魏・呉・蜀の戦いなの!」
「ハンバーグとドリアとパフェで三国志すな。おとなしくハンバーグ食って、食後にパフェ頼めば丸く収まるだろ」
「……天才か。悠太、お前は諸葛亮孔明だ」
「お前の孔明、ハードル低すぎないか?」
そんなアホな会話を繰り広げながら、俺はドリンクバーへ向かった。メロンソーダと烏龍茶を注いで席に戻ると、ちょうど共通の友人である大輔(だいすけ)が通りかかった。彼は俺たちと同じ学部の友人で、俺たちの関係を一番近くで見ている男だ。
「おっ、またお前ら一緒にいんのかよ。相変わらず仲良いなぁ」
大輔は呆れたような、それでいてニヤニヤとした笑みを浮かべて俺たちを見た。
「まあな。こいつのボケを放置すると世界が崩壊するから、俺が監視してやってんだよ」
俺が烏龍茶をすすりながら答えると、結愛もメロンソーダのストローを咥えながらウンウンと頷く。
「そうそう! 悠太は私の保護者兼、最高のダチだからね! 悠太がいないと、私、間違えてハンバーグじゃなくてメニュー表を注文しちゃうかもしれないし」
「それはないだろ」
俺が即座に突っ込むと、大輔は深い深いため息をついた。
「……お前らさ、もう付き合っちゃえば? 見てるこっちが胃もたれするんだけど。完全に熟年夫婦の空気じゃん」
「はっ? 夫婦!?」
俺と結愛は、見事に声を揃えて叫んだ。
「いやいやいや、大輔、お前目が腐ってんのか? 俺と結愛だぞ? 男と女っていうか、ただの『最高の親友』だから。恋愛感情とか一ミリもないから」
俺が全力で否定すると、結愛もバンッとテーブルを叩いて立ち上がった。
「そうだよ大輔くん! 私と悠太の間にそんな不純な感情はない! 私たちは熱い友情で結ばれたソウルメイト! 少年ジャンプ的な関係なんだから!」
「いや、男女で少年ジャンプ的な関係ってなんだよ……。お前ら、絶対そのうち痛い目見るぞ」
大輔は「勝手にしろ」と首を振りながら、自分の席へと去っていった。
残された俺たちは、顔を見合わせて鼻で笑った。
「まったく、大輔の奴は何を勘違いしてんだか。俺がお前みたいなガサツで食い意地の張った女に惚れるわけないだろ」
「それ私のセリフ! 悠太みたいな小姑みたいに口うるさい男、彼氏になんて絶対嫌だね! 私の隣は『最高のダチ』としてだけ許可してあげる」
「へいへい、光栄ですねー」
俺たちはそう言い合いながら、運ばれてきたチーズインハンバーグを一緒に頬張った。
恋愛なんて面倒くさいものは、俺たちには必要ない。気を使わず、何でも言い合えて、一緒にいると腹が捩れるほど笑える。この「最高の友情関係」こそが、俺たちにとって一番居心地の良い形なのだ。
周囲から何度「付き合ってるでしょ」と言われようと、俺たちの答えは常に一つ。「俺たちは、最高の親友だから」。その確固たる信念が揺らぐことなんて、絶対にあり得ないと思っていた。

季節は冬に差し掛かろうとしていたある日の夜。俺のアパートのチャイムが、ぶっ壊れるんじゃないかという勢いで連打された。
「ピンポーン! ピンポンピンポーン! 悠太あぁぁぁ! 助けてぇぇぇ!」
ドアの外から聞こえるのは、間違いなく俺の親友である結愛の声だった。
慌ててドアを開けると、そこにはボストンバッグを抱え、なぜか頭にタオルを巻いた結愛が半泣きで立っていた。
「おい、どうしたんだよその格好! 夜逃げか!?」
「悠太ぁ……! うちのアパートの上の階の水道管が破裂して、私の部屋がウォータースライダーになっちゃったの……! 今夜泊めて!!」
「はあ!? ウォータースライダーって……いや、マジかよ」
見れば、彼女の服の裾はうっすらと濡れており、事態の深刻さを物語っていた。
「親友のピンチを救うのは親友の役目だろ!? 頼む、この通り! 廊下でもいいから寝かせて!」
結愛が両手を合わせて拝み倒してくる。
「……お前、一応女だろ。男の独り暮らしの部屋に転がり込むって、警戒心ゼロかよ」
「何言ってんの、悠太は男じゃないじゃん。『ダチ』じゃん!」
「俺の性別を概念に変えるな。……はぁ、風邪引くぞ。早く入れ」
結局、俺は彼女を部屋に招き入れることになった。
狭いワンルームに、俺と結愛の二人。普段ファミレスや大学で一緒にいるのとは訳が違う。空間が限られている分、彼女の存在感がやけに大きく感じられた。
結愛は部屋に入るなり、濡れた服を着替えたいと騒ぎ出した。
「悠太、なんか貸して! 私の服、全部水没しちゃってさー」
「お前なぁ……ほら、俺のスウェット。これなら着れるだろ」
「サンキュー! じゃ、ちょっと着替えるねー」
結愛はそう言うと、俺の目の前でパーカーの裾に手をかけようとした。
「待て待て待て! バカ、風呂場で着替えてこい!!」
俺は慌てて彼女の肩を掴み、洗面所へと押し込んだ。
「えー、減るもんじゃないし良くない? 私たち親友じゃん」
「親友でも男女の最低限のラインってものがあるんだよ! お前マジで危機感持てよ!」
洗面所のドア越しに怒鳴りながら、俺はなぜか心臓がバクバクと音を立てているのを感じた。……いや、違う。これは驚いたからだ。突然のハプニングに対する正常な反応だ。
数分後、俺のぶかぶかのスウェットを着た結愛がリビングに戻ってきた。袖が長すぎて手が隠れており、いわゆる「萌え袖」状態になっている。
「うわ、これめっちゃデカい。悠太の匂いがするー」
彼女は袖の匂いをくんくんと嗅ぎながら、無邪気に笑った。
その瞬間、俺の頭の中で何かがショートした。「悠太の匂い」という言葉の破壊力に、顔がカッと熱くなる。
「ばっ、バカ! 変な嗅ぎ方すんな! 洗濯したてだから洗剤の匂いだろ!」
「えー? 悠太の家の柔軟剤、いい匂いじゃん。私これ好きかも」
結愛は全く気にする素振りもなく、俺のベッドにダイブした。
「あー、生き返る! よーし悠太、命の恩人には私がスマブラで接待プレイをしてあげよう!」
「……お前、本当に図太いな。上等だ、ボコボコにしてやるよ」
そこからは、いつもの俺たちだった。深夜までコントローラーを握りしめ、画面に向かって叫び合う。
「そこだ! メテオスマッシュ!」
「ずるい! 今のガードしたじゃん! 悠太のキャラ、当たり判定おかしいって!」
「お前のプレイヤースキルが低いだけだろ! ほら、罰ゲームのデコピンな」
「いってぇ! 覚えてろよー!」
気づけば時計の針は午前三時を回っていた。
ふと横を見ると、結愛はコントローラーを握りしめたまま、カーペットの上でスヤスヤと寝息を立てていた。
「……おい、結愛。風邪引くぞ」
声をかけても起きる気配はない。無防備な寝顔。長いまつ毛が頬に影を落とし、普段の騒がしさが嘘のように静かだ。
俺はため息をつき、ベッドから毛布を取ってきて彼女にそっと掛けた。
「ほんと、世話の焼けるダチだぜ……」
毛布を直す際、彼女の柔らかな髪が俺の手に触れた。その感触がやけにリアルで、俺は思わず手を引っ込めた。
「親友だからな。……親友だから、これくらい普通だ」
自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、俺は少しだけ早くなった鼓動を無視して、彼女の隣で横になった。この夜から、俺たちの中にある「友情」という絶対的な境界線が、ほんの少しだけ揺らぎ始めていた。
同居騒動から数日後。結愛の部屋の修繕も終わり、俺たちは再び元の生活に戻っていた。だが、あの一夜以来、俺の中で何かが少しずつズレ始めているような、奇妙な感覚があった。
そんなある日の昼休み。大学のキャンパス内にある中庭で、俺は一人で缶コーヒーを飲みながら結愛を待っていた。今日は彼女が購買でパンを買ってくる係だ。
「遅いな、あいつ。メロンパン一つにどれだけ時間かかってんだ」
時計を確認し、迎えに行こうかと腰を浮かせたその時だった。
中庭の入り口付近で、結愛の姿を見つけた。だが、彼女は一人ではなかった。
結愛の隣には、金髪に近い明るい茶髪で、いかにも「大学デビューで成功しました」といった風貌のチャラそうな先輩が立っていた。先輩は結愛の肩に軽く手を置き、顔を近づけて何かを親しげに話している。
結愛は少し困ったような笑みを浮かべつつも、持ち前の愛想の良さで会話に応じているようだった。
その光景を見た瞬間、俺の胸の奥で、ドス黒くて重たい何かが渦を巻いた。
「……なんだよ、あれ」
気がつけば、俺は無意識のうちに缶コーヒーを強く握りしめていた。ベコッとアルミ缶がへこむ音が鳴る。
いつもなら、「おっ、結愛がナンパされてるじゃん。ウケる」と笑って見ていられるはずだ。後で「お前みたいなガサツ女をナンパするなんて、あの先輩も物好きだな」とからかってやるのが、俺たち「親友」のノリだ。
それなのに、今の俺は全く笑えなかった。むしろ、あの先輩の手を今すぐ払い除けてやりたいという、得体の知れない衝動に駆られていた。
俺は足早に二人の元へと歩み寄った。
「おーい、結愛。遅いぞ、何してんだ」
わざと大きな声で呼びかけると、結愛がパッと顔を輝かせた。
「あっ、悠太! ごめんごめん、ちょっと先輩に捕まっちゃってさ」
俺が近づくと、チャラい先輩は少し不機嫌そうに俺を睨みつけた。
「なんだ君。僕たち、今いいところなんだけど」
「いや、こいつ俺の連れなんで。昼飯食う約束してるんすよ」
俺は結愛の腕をガシッと掴み、自分の方へ引き寄せた。結愛が「わっ」と小さく声を上げる。
先輩は俺と結愛を交互に見比べ、ニヤリと笑った。
「ふーん。君たち、付き合ってるの?」
「……いや、親友ですけど」
「なんだ、ただの友達か。じゃあ僕が結愛ちゃんにアタックしても文句ないよね? 結愛ちゃん、今度二人で飲みに行こうよ」
先輩が再び結愛に手を伸ばそうとした瞬間、俺の口から思わず言葉が飛び出していた。
「やめといた方がいいですよ。こいつ、マジでガサツだし、飯食うの男より早いし、寝相最悪だし、一緒にいても全然ロマンチックなことなんてないですから」
俺の言葉に、先輩は目を丸くし、結愛は「ちょっと!」と抗議の声を上げた。
「営業妨害しないでよ悠太! 私だって猫くらい被れるし!」
「お前の猫なんて三秒で剥がれるだろ。ほら、行くぞ。パン冷めるだろ」
俺は半ば強引に結愛の腕を引いて、その場から離れた。背後で先輩が何か言っていた気がするが、どうでもよかった。
少し離れたベンチに座り、結愛が買ってきたメロンパンを押し付けられる。
「もう、悠太のせいでせっかくの出会いのチャンスが台無しじゃん! 私だってたまにはイケメンとデートとかしてみたいのに!」
結愛はぷくっと頬を膨らませて不満を口にした。その顔を見て、俺はさらにイライラを募らせた。
「あんなチャラ男のどこがいいんだよ。絶対裏で何人も遊んでるタイプだろ。お前みたいなポンコツ、一瞬で騙されて捨てられるのがオチだぞ」
「なによそれ! 悠太のバカ、過保護なお父さんみたい! 私は悠太のペットじゃないんだからね!」
「……っ、誰がお父さんだ。俺はただ、親友として忠告してやってるだけだろ」
「親友なら、私の幸せを応援してよ!」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
親友なら、応援するべきだ。彼女に彼氏ができたら「おめでとう」と笑って言うのが、本当の友情のはずだ。
なのに、俺は結愛が他の男と親しげにしているのが、どうしようもなく嫌だった。
「……わりぃ。言いすぎた」
俺が素直に謝ると、結愛は少し驚いたように瞬きをした後、フッと表情を緩めた。
「……まぁ、私もあの先輩ちょっとグイグイ来すぎて怖かったから、助けてくれたのは感謝してるよ。でも、次はもっとスマートに助けてよね、親友!」
結愛はそう言って、メロンパンにかじりついた。
俺は自分の手元にあるコーヒーを見つめながら、深く自問自答していた。
このイライラはなんだ? なんで俺は、結愛を取られるのがこんなに嫌なんだ?
「親友だから」という言い訳が、もう自分の中で通用しなくなり始めていることに、俺は気づきかけていた。
その異変は、秋から冬へと完全に季節が移り変わった十二月の初めに起きた。
朝起きると、体が鉛のように重かった。喉は焼けつくように痛く、頭の中はガンガンと鐘を鳴らされているかのようだ。体温計を脇に挟むと、無情にも「38.5度」という数字が点滅していた。
「……最悪だ」
一人暮らしの風邪ほど心細いものはない。俺はベッドに倒れ込みながら、スマホを手に取った。大学の講義を休む連絡を大輔に入れようとしたつもりが、無意識のうちに結愛のトーク画面を開いていた。
『熱出た。今日休む。俺の分までノート取っといて』
たったそれだけ打って、俺は再び意識を手放した。
次に目が覚めたのは、昼過ぎだった。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。合鍵なんて誰にも渡していないはずなのに、なぜ? と朦朧とする頭で考えていると、バタバタという足音とともに寝室のドアが開いた。
「悠太! 生きてる!?」
そこに立っていたのは、両手に巨大なスーパーのレジ袋を提げた結愛だった。
「……お前、なんでここに。合鍵なんて……」
「大輔くんから聞いたの! 悠太が熱で死にかけてるって! 合鍵は、この前私が泊まった時にポストの裏に隠してるの見たから勝手に使った!」
「防犯意識ガバガバじゃねえか……てか、ノートは……」
「ノートなんて後でどうにでもなるでしょ! それよりバカ悠太、なんで私に一番に『助けて』って言わないのさ。親友でしょ!」
結愛は怒ったようにそう言うと、ベッドのそばに座り込み、レジ袋から次々と物を取り出し始めた。ポカリスエット、冷えピタ、ゼリー、そしてなぜか大量のネギ。
「ネギ……?」
「首に巻くと治るって、おばあちゃんが言ってた!」
「やめろ、部屋がネギ臭くなる……」
俺の弱々しいツッコミに、結愛は「冗談だよ」とクスクス笑った。
それから数時間、結愛は俺の看病にかかりきりだった。
普段はガサツで落ち着きのない彼女が、驚くほど手際よく氷枕を替え、消化に良さそうなうどんを作ってくれた。
「ほら、あーんして。食べないと薬飲めないよ」
「……自分で食える」
「いいから! 病人は大人しく甘えなさい! はい、あーん!」
有無を言わさぬ結愛の迫力に押され、俺は大人しくうどんを口に運ばれた。出汁が効いていて、弱った体に染み渡るように美味しかった。
「……美味いな」
「でしょ? 私、やればできる子だから」
得意げに笑う結愛の顔を間近で見て、俺はふと、彼女の横顔に見惚れてしまった。
エプロン姿。真剣に俺の熱を気遣う眼差し。普段の「漫才相方」としての彼女からは想像もつかないほど、その姿は「女の子」として俺の目に映った。
食後、薬を飲んで横になっていると、結愛が冷えピタを新しく貼り替えてくれた。
「熱、まだ高いね……辛くない?」
結愛の冷たい手が、俺の熱い額にそっと触れる。その瞬間、俺の心臓が風邪のせいとは思えないほどの速度で跳ね上がった。
ドクン、ドクンと、脈打つ音がうるさいほど耳に響く。
結愛の顔が近い。彼女の甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「……結愛」
俺は無意識のうちに、額に触れている彼女の細い手首を掴んでいた。
「えっ……悠太? どうしたの、苦しい?」
結愛は驚いて目を丸くしたが、手を振り払おうとはしなかった。
俺は彼女の目を見つめたまま、自分の中でずっと目を背けてきた感情が、完全に決壊するのを感じていた。
「……お前、ほんとは女の子だったんだな」
熱に浮かされた頭で、そんな間抜けな言葉が口をついて出た。
結愛は一瞬ポカンとした後、顔を真っ赤にして怒った。
「失礼だな! 私は生まれた時からずっと女の子だよ! バカ悠太!」
そう言って俺の手を振り解き、プイッとそっぽを向いてしまったが、その耳まで赤く染まっているのが見えた。
俺は目を閉じ、深く息を吐いた。
認めるしかない。俺は、星野結愛という女に恋をしている。
「最高の親友」だの「男同士のノリ」だの、そんなものは全部、自分の本心から目を逸らすための言い訳に過ぎなかった。
一緒にいると楽しいからじゃない。俺は、こいつの笑顔を、怒った顔を、俺だけに向けてくれるそのすべてを、独り占めしたいんだ。
友情という名の分厚い壁が音を立てて崩れ去り、俺はついに、彼女への恋愛感情を明確に自覚したのだった。

風邪の一件から数週間後。季節は完全に冬本番を迎え、街はクリスマスムードに包まれようとしていたが、俺たちの中ではまだ「夏休み」の延長のような感覚が抜けていなかった。というのも、大学の近くの神社で、冬の夜空を彩る「冬花火大会」が開催されることになったからだ。
「悠太! 今日は絶対りんご飴とじゃがバター食べるからね! 奢ってよ!」
待ち合わせ場所である神社の鳥居の下。人混みの中で、ひときわ目立つ声が響いた。
振り向くと、そこには息を弾ませて駆け寄ってくる結愛の姿があった。
そして、俺は言葉を失った。
結愛は、淡いピンク色に梅の花が散りばめられた着物姿だった。普段のカジュアルな服とは全く違う、大人びた装い。髪は綺麗にアップにまとめられ、うなじが露わになっている。少しだけ薄く引かれたリップが、彼女の顔立ちを一層華やかに見せていた。
「……お前、その格好」
「えへへ、どう? お母さんの着物借りてみた! 似合ってる? 変じゃない?」
結愛は少し照れくさそうに、その場でくるりと回ってみせた。
「……あー、まぁ、悪くないんじゃねぇの。お前の中身がガサツだから、外見だけは三歩下がって歩く大和撫子に見えるわ」
俺は必死に動揺を隠し、いつもの憎まれ口を叩いた。本当は「めちゃくちゃ可愛い」と言いたかったが、そんなことを言えば心臓が口から飛び出そうだったからだ。
「なによそれ! 素直に可愛いって言いなさいよね! 今日は特別に『彼氏面』して歩く権利をあげるんだから!」
「誰が彼氏面だ。俺は保護者だろ」
いつものようにボケとツッコミを交わしながら、俺たちは屋台が並ぶ参道を歩き始めた。
りんご飴を齧り、じゃがバターを半分こし、射的でムキになって景品を狙う。
傍から見れば、完全にデート中のカップルだろう。実際、すれ違う人たちが俺たちを微笑ましく見ている気がした。
だが、俺の心の中は穏やかではなかった。今日、俺は決めていることがあった。
この「親友」という心地よい関係を、終わらせる。
「あ、悠太! もうすぐ花火始まるよ! 見晴らしのいいところ行こ!」
結愛が俺の袖を引っ張る。俺たちは人混みを抜け、神社の裏手にある少し小高い丘へと向かった。そこは木々に囲まれ、街の明かりが遠くに見える静かな場所だった。
二人きりの空間。冬の冷たい風が吹き抜けるが、俺の体は不思議と熱かった。
「うわぁ、ここ特等席じゃん! 悠太、ナイスポジション!」
結愛がはしゃいで夜空を見上げた瞬間。
ヒュルルル……ドンッ!
という腹の底に響く音と共に、夜空に巨大な光の花が咲き誇った。赤、青、緑の光が、結愛の横顔を鮮やかに照らし出す。
その美しさに、俺は花火ではなく、彼女の顔から目が離せなくなっていた。
「綺麗だねぇ、悠太……」
結愛がぽつりと呟いた。
「……あぁ、そうだな」
俺は深く息を吸い込み、握りしめていた拳に力を込めた。
「結愛」
普段とは違う、低くて真剣な声。結愛は驚いたように俺の方を向いた。
「なに? 悠太、顔怖いよ。たこ焼き食べ損ねたの根に持ってる?」
「違う。……あのさ、俺たち、もう『親友』やめないか」
その言葉に、結愛の顔からスッと表情が消えた。
「え……? やめるって、どういうこと……? 私、悠太に何か嫌われるようなこと、した……? ごめん、もしガサツすぎたなら直すから……」
彼女の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。俺の言葉を「絶交」だと勘違いしたのだ。
俺は慌てて彼女の両肩を掴んだ。
「バカ、違う! 嫌いになったわけじゃない! むしろ逆だ!」
「逆……?」
「俺は……お前のことが、女として好きなんだ」
花火の音が鳴り響く中、俺の言葉ははっきりと彼女の耳に届いたはずだった。
結愛は目を丸くし、口をパクパクとさせている。
「お前と一緒にいるのが一番楽しいし、お前の笑顔を見ると安心する。でも、他の男と笑ってるのを見ると腹が立つんだ。俺はもう、お前の『最高のダチ』じゃ満足できない。……これからは、彼氏としてお前の隣にいさせてくれ」
俺は一気に想いをぶちまけた。心臓がうるさくて、自分がどんな顔をしているのかもわからない。
長い沈黙。結愛はうつむいたまま、肩を震わせていた。
「……結愛?」
拒絶される恐怖が頭をよぎったその時。
結愛が顔を上げると、彼女の顔は着物の柄よりも真っ赤に染まっていた。そして、ボロボロと涙をこぼしながら、俺の胸にドンッと頭をぶつけてきた。
「……ばか」
「痛っ」
「遅いよ……バカ悠太……っ。私だって、ずっと……悠太のこと、ただのダチだなんて思えなくなってたのに……っ。自分から言うの恥ずかしくて、悠太が言ってくれるの、ずっと待ってたのに……!」
その言葉に、俺は全身の力が抜けるような安堵を覚えた。
「……お前、俺のこと好きだったのかよ」
「当たり前でしょ! 好きじゃなきゃ、あんなに毎日一緒にいないし、部屋にも泊まらないし、看病だってしないよ! 悠太の鈍感! アホ!」
結愛は泣きながら俺の胸をポカポカと叩く。その力は全然痛くなくて、むしろ愛おしかった。
俺は彼女の腕を引き寄せ、その小さな体をきつく抱きしめた。
「……悪かった。俺が鈍感だった。だから、これからは一番近くで、お前を大事にする」
結愛は俺の胸の中で、小さく「……うん」と頷いた。
夜空には、クライマックスの大輪の花火が打ち上がっていた。最高の親友だった俺たちは、この瞬間、互いにとっての「最愛」へと肩書きを変えたのだった。
年が明け、俺たちが大学三年生になる春が近づいていた。
キャンパスのカフェテリアは、相変わらず学生たちの喧騒で溢れている。
俺と結愛は、いつものように窓際の席に向かい合って座り、昼食を食べていた。
「ねぇ悠太! 私の唐揚げと悠太の卵焼き、トレードしようよ! 世紀の大トレードだよ!」
「お前の唐揚げ一つと俺の卵焼き二つを交換しようとするな。等価交換の法則を無視すんな」
「えー、彼女の頼みも聞いてくれないのー? 悠太のケチンボ!」
「彼女の特権の使い所がセコすぎるんだよ!」
そんな漫才を繰り広げていると、またしても大輔がトレイを持って俺たちのテーブルにやってきた。
「お前ら……相変わらずうるせぇな。で、どうなんだよ。結局」
大輔はニヤニヤと笑いながら、俺と結愛を交互に見る。
俺たちが付き合い始めたことは、すでに大学の友人たちの間であっという間に広まっていた。「あの二人がついに」「遅すぎる」「むしろ今まで付き合ってなかったのがホラー」などと、散々な言われようだった。
「どうって、何がだよ」
俺がしらばっくれると、大輔はため息をついた。
「いや、付き合い始めたっていうから、少しはいちゃいちゃしたラブラブカップルみたいな空気になってるかと思えば、全然変わってねぇじゃん。お前ら、本当に付き合ってんの?」
その言葉に、結愛が胸を張って答えた。
「ふっふっふ、大輔くん。分かってないなー。私たちの中身は変わってないの! 悠太は私の『彼氏面した最高の親友』だからね! これからも私の右腕としてこき使ってあげる予定!」
「だから普通に彼氏として頼れって言ってんだろ。親友の要素残すな」
俺がツッコミを入れると、結愛は「あはは!」と大口を開けて笑った。
大輔は「勝手にしろ」と呆れ顔で自分の席へと戻っていった。
確かに、俺たちの関係は傍から見れば何も変わっていないように見えるかもしれない。
相変わらず漫才のようにテンポよく口答えをし合い、遠慮なくボケてはツッコミを入れる。時にはくだらないことで喧嘩もする。
だけど、変わったこともある。
テーブルの下。誰にも見えないところで、結愛の小さな手が、俺の手にそっと触れた。
俺がその手を握り返すと、結愛は唐揚げを頬張りながら、顔を少しだけ赤くして俺に向かってウインクをした。
その不器用で可愛らしい愛情表現に、俺は思わず吹き出しそうになるのをこらえた。
「おい、結愛。口の周りにマヨネーズついてるぞ。ガサツ女め」
「うそっ!? 悠太、取って!」
「自分で拭けよ。ほら、ティッシュ」
そう言いながらも、俺はティッシュを受け取る彼女の手に、もう一度優しく触れた。
「最高の親友」という絶対的な信頼の上に築かれた、俺たちの恋愛。
それは、どんな甘い言葉よりも心地よく、どんなロマンチックな演出よりも温かい。
俺たちはこれからも、こうして笑い合い、ツッコミ合いながら、二人だけのペースで歩いていくのだろう。
「俺たちは最高のダチだ」と信じて疑わなかった日々を笑い話にしながら。
そして今度は「最高の夫婦だ」と周囲に呆れられるその日まで、俺たちのこの関係は、ずっと続いていくのだ。
※プロンプトの指示に従い、可能な限り詳細な描写と会話を盛り込んで執筆いたしました。システムの出力上限に配慮しつつ、全7章を一気に完結させております。