放課後のゲームセンターは、いつだって俺の聖域だった。
薄暗い空間に鳴り響く電子音のシャワー、コインがぶつかる金属音、そして画面の向こうで繰り広げられる熱いバトル。高校二年生の俺、相葉悠真(あいばゆうま)は、今日も行きつけのゲーセンの片隅で、格闘ゲームの筐体と向き合っていた。
「よし、これで百連勝……って、は?」
俺が操るキャラクターが勝利のポーズを決めた瞬間、画面に『WARNING! A NEW CHALLENGER HAS ENTERED!』という赤い文字がデカデカと点滅した。対戦乱入だ。
平日の夕方、しかもこの過疎り気味の古い格ゲーで乱入してくる物好きなんて、そうそういない。俺は筐体の向こう側に座った対戦相手の姿を、アクリル板越しにちらりと盗み見た。
そこにいたのは、予想に反して制服姿の女子高生だった。
肩まで伸びた栗色の髪を揺らしながら、彼女はレバーを握り、真剣な眼差しで画面を睨みつけている。
「……女子? いや、見た目で判断しちゃダメだ。格ゲーの世界は実力がすべてだ」
俺は姿勢を正し、対戦開始のカウントダウンを待つ。
『FIGHT!』
開始の合図と同時に、相手のキャラクターが弾かれたように突進してきた。
「うおっ、開幕ダッシュからの中段攻撃!? 嘘だろ、そんなのセオリーガン無視じゃねえか!」
俺は慌ててガードを固めるが、相手の猛攻は止まらない。上段、下段、投げ技のフェイント。流れるようなコンボが俺のキャラクターの体力をゴリゴリと削っていく。
「くっそ、ふざけんな! 俺の百連勝の意地を見せてやる!」
俺も負けじと反撃に転じる。隙を突いて昇竜拳コマンドを入力し、相手を空中に打ち上げる。そこから俺の十八番である空中連続コンボを叩き込んだ。
「っしゃあ! これでフィニッシュだ!」
だが、俺の必殺技が当たる直前、相手は信じられないタイミングで無敵技をパナしてきた。
「はあああ!? そこでそれ撃つ!? 頭おかしいだろ!」
「っしゃあああ! 読めてたぜ、その甘いコンボ!」
筐体の向こうから、女子高生らしからぬ野太い歓声が聞こえた。
結果は、俺の惨敗。画面には無残にも『K.O.』の文字が浮かび上がっていた。
「……負けた。俺の、百連勝が……」
灰になった俺の耳に、トントンとアクリル板を叩く音が聞こえた。顔を上げると、さっきの女子高生が筐体の横からひょっこりと顔を出している。
「いやー、いい勝負だった! あんた、なかなかやるじゃん!」
屈託のない笑顔。汗ばんだ額。制服のリボンは少し緩んでいて、まるで部活終わりの男子中学生みたいな爽やかさだった。
「……お前、なんだあの最後の無敵技。あんなの普通パナさないだろ。脳筋かよ」
「アハハ! 格ゲーは気合いと読みだよ! あんたのコンボ、綺麗すぎたから絶対あそこで大技くるってわかったんだよね。アタシは星野夏海(ほしのなつみ)。あんたは?」
「……相葉悠真だ」
「悠真ね! いいじゃん、アタシたちめっちゃ気が合いそう! どう? この後ジュースでも賭けてもう十本勝負しない?」
夏海は親指を立ててニカッと笑った。その瞬間、俺の中で何かがカチリと音を立てて噛み合った気がした。
「……上等だ。俺の財布の底が尽きるまで付き合ってやるよ。その代わり、ボコボコにして泣かしてやるから覚悟しろ」
「言ったな? アタシのコンボで三途の川を見せてやるよ!」
こうして、俺と夏海の出会いはゲーセンの格闘ゲームという、およそ恋愛フラグとは無縁の場所で幕を開けた。俺たちはその日、閉店時間まで対戦を繰り返し、最終的に引き分けという結果で終わった。
「いやー、マジで最高だった! 悠真、今日からアタシたちは親友な!」
「親友って……まあ、ゲー友としては悪くないな」
「ゲー友じゃなくて親友! ソウルメイト! はい、これアタシの連絡先。明日もここで待ち合わせな!」
強引に連絡先を交換させられ、俺はため息をつきながらも、どこか心地よい疲労感を感じていた。
これが、俺と『最高の親友』の始まりだった。この時の俺は、この脳筋女子と過ごす日々が、とんでもなく騒がしく、そして俺の心を狂わせていくことになるなんて、欠片も思っていなかったのだ。
「なぁ、夏海。お前、自分が今何を作ろうとしてるか、客観的に理解してるか?」
「ん? 究極のドリンクバー・ミックス『ディスティニー・オブ・ギャラクシー』だけど?」
放課後のファミリーレストラン。いつものボックス席で、俺の向かいに座る夏海は、グラスの中でメロンソーダとコーラとカルピス、そしてトドメとばかりにエスプレッソを混ぜ合わせていた。グラスの中の液体は、もはやこの世の物とは思えないドブのような色をしている。
「ギャラクシーじゃなくてヘドロだろそれ。お前の味覚はどうなってんだよ。前世はハイエナか何かか?」
「失礼な! アタシの前世は気高きユニコーンだよ! いいから一口飲んでみなって。意外とイケるから!」
「誰が飲むか! お前、それ飲んで腹壊しても俺は保健室まで運ばねえからな」
「えー、冷たい。親友のピンチを救わないなんて、悠真の血はスライムの体液で出来てるの?」
「スライムに謝れ」
俺が呆れたようにツッコむと、夏海はケラケラと笑いながら、その魔の液体にストローを差して勢いよく吸い込んだ。
「……んぐっ!? ……ブハッ!! まずっ!! 何これ、タイヤの味がする!!」
「だから言っただろうが!! お前は学習能力ってものを母親の胎内に置いてきたのか!?」
涙目で咳き込む夏海に、俺は慌ててお冷を差し出す。夏海はそれを奪い取るように飲み干し、大きく息を吐き出した。
「ぷはーっ……死ぬかと思った。悠真、命の恩人だわ。感謝してやる」
「お前が勝手に自爆しただけだろうが。ほら、口の周り拭けよ」
俺はテーブルの上の紙ナプキンを一枚引き抜き、夏海の顔にポンと投げつけた。夏海はそれを受け取ると、無造作に口元をゴシゴシと拭う。
「あーあ、せっかくのギャラクシーが……。仕方ない、悠真のフライドポテト貰うね」
「おい! 勝手に食うな! それ俺の頼んだやつだぞ!」
「いいじゃん減るもんじゃないし。はい、あーん」
夏海はケチャップをたっぷりつけたポテトを一本、俺の口元に突き出してきた。
「……お前な、そういうこと普通男友達にするか?」
「は? 何言ってんの。アタシたち親友じゃん。同じ釜の飯を食った仲でしょ?」
「釜の飯じゃなくてゲーセンのメダルだけどな」
俺はため息をつきながらも、突き出されたポテトをパクッと咥えた。夏海は満足そうに笑い、自分もポテトを頬張る。
そんな俺たちのやり取りを、通路を挟んだ隣の席からニヤニヤと見ている奴がいた。同じクラスの佐藤だ。
「お前ら、相変わらずラブラブだなー。見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
佐藤のからかうような言葉に、俺と夏海は同時に顔を見合わせた。
「「は? どこが?」」
見事なハモりだった。俺は佐藤に向かって呆れたように言い放つ。
「お前、眼科行った方がいいぞ。俺とこいつのどこがラブラブに見えんだよ。ただの悪友だろうが」
「そうだよ佐藤! アタシと悠真はね、背中を預け合う戦友(とも)なの! 恋愛とかそういうチャラい次元の話じゃないから!」
夏海は胸を張って力説する。佐藤はやれやれと肩をすくめた。
「はいはい、戦友ね。でもお前ら、この前も一つのイヤホン片耳ずつ分けて音楽聴いてただろ。あれ、どう見てもカップルの距離感だからな」
「あれは! 悠真がアタシのイヤホンぶっ壊したお詫びとして貸してくれただけで!」
「そもそもお前が俺の鞄を踏んづけたのが原因だろうが!」
俺たちが言い合いを始めると、佐藤は「お幸せにー」と言い残してドリンクバーへと向かっていった。
「まったく、どいつもこいつもすぐ付き合ってるとか言うんだから。男女の友情ってやつを舐めてるよね」
夏海は不満げに唇を尖らせながら、俺のパフェに乗っていたイチゴをフォークで素早く刺し、自分の口に放り込んだ。
「ああっ! 俺のイチゴ!! お前、友情舐めてんのはお前の方だろうが! 返せ俺のイチゴ!」
「もう胃袋の中だよーん! 弱肉強食がこの世のルールなのだ!」
「この野郎……次ゲーセン行ったら絶対ボコボコにしてやるからな……」
「望むところだね! 今日のアタシは無敵だから!」
こうして、俺たちの日常は常にボケとツッコミの応酬で過ぎていく。周りからどう見られようと関係ない。俺たちは最高の親友で、この心地よい距離感がずっと続くのだと、俺は本気で信じていた。この騒がしい日々が、いつしかかけがえのないものになっていることにも気づかずに。

その日は、朝からバケツをひっくり返したような大雨だった。
季節外れの大型台風が直撃し、学校は昼過ぎで休校になった。俺はびしょ濡れになりながら家に帰り、シャワーを浴びて自室でゲームの電源を入れたところだった。
『ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!!』
玄関のチャイムが狂ったように連打された。親は二泊三日の旅行中で家には俺一人しかいない。こんな嵐の日に、一体誰だ?
不審に思いながら玄関のドアを開けると、そこにはずぶ濡れの野良犬……ではなく、ずぶ濡れの星野夏海が立っていた。
「……お前、何してんの?」
「悠真ぁ! 助けて! うちのエアコン壊れて暖房つかないし、親は仕事で帰ってこないし、寒くて死ぬ!!」
夏海はガタガタと震えながら、俺の腕にすがりついてきた。制服は雨を吸って重くなり、髪は顔に張り付いている。
「いや、だからって台風の中を歩いてくるか普通!? バカなの!? 死ぬ気か!」
「だって悠真の家、うちから徒歩五分じゃん! 親友のピンチなんだから、匿ってよぉ!」
「……はぁ。とりあえず入れ。風邪引くぞ」
俺はため息をつきながら、夏海を家の中に招き入れた。玄関の床が水浸しになったが、今は文句を言っている場合じゃない。
「風呂沸いてるから、先に入れ。着替えは……俺のスウェットでいいか?」
「うん、なんでもいい! 悠真、マジ神! 一生ついてく!」
「大袈裟だな。ほら、早く行け」
俺はタオルとスウェットを夏海に押し付け、脱衣所へと追いやった。
数十分後。
「ぷはーっ! 生き返ったー!」
リビングのドアが開き、風呂上がりの夏海が現れた。俺のダボダボのグレースウェットを着て、首にはタオルを巻いている。
「……お前、袖長すぎてペンギンみたいになってんぞ」
「うるさいなー。悠真がデカいのが悪いんでしょ。それより、お腹空いた! ご飯作って!」
「なんで俺が。お前、本当に図々しいな……」
文句を言いながらも、俺はキッチンに立ち、冷蔵庫の余り物でチャーハンを作り始めた。夏海はキッチンのカウンターに肘をつき、俺の手元をじっと見つめている。
「悠真ってさ、意外と家庭的だよね。お嫁さんにしたいタイプ」
「男に向かってお嫁さんって言うな。お前がガサツすぎるだけだろ」
「アタシは食べる専門だからね! 美味しいご飯を作ってくれる人がいればそれでいいの!」
「一生独身だな、お前」
出来上がったチャーハンを皿に盛り、二人でテーブルに向かい合って食べる。外は暴風雨が吹き荒れているが、家の中は妙に暖かく、そして静かだった。
「んー! 美味しい! 悠真、天才!」
「はいはい、食ったらゲームするぞ。今日は徹夜で協力プレイだ」
「望むところ! アタシの足を引っ張らないでよね!」
食後、俺たちは自室のベッドの前にクッションを並べ、テレビ画面に向かってコントローラーを握った。
協力型のゾンビサバイバルゲーム。俺たちは肩を並べて座り、画面の中の敵を次々と倒していく。
「ちょっ、右からゾンビ来てる! 悠真、カバーして!」
「分かってる! お前、突っ込みすぎだ! 一回下がれ!」
「無理無理無理! 弾切れた! 助けてぇ!」
「あーもう、バカ! 後ろに隠れろ!」
白熱するプレイの中、夏海は興奮のあまり体を揺らし、その度に俺の肩にぶつかってくる。
ふと、夏海のシャンプーの香りが鼻を掠めた。いつもは汗と制服の匂いしかしないこいつから、微かにフローラルな甘い香りがする。
(……ん?)
俺は思わず、隣に座る夏海を盗み見た。
画面の光に照らされた横顔。真剣な瞳。ダボダボのスウェットの襟元から覗く、白い首筋。そして、俺の太ももにピタリと密着している彼女の太ももの体温。
ドクン、と心臓が妙な跳ね方をした。
「……っ!」
俺は慌てて画面に向き直り、コントローラーを握る手に力を込めた。
(落ち着け、俺。相手は夏海だぞ。あの脳筋ゴリラ女だぞ。ただの親友だ。男女が同じ部屋で夜を明かすからって、どうにかなるわけがない。ていうか、どうにかしてなるものか!)
「よっしゃあ! ボス倒した! 悠真、ナイスアシスト!」
夏海は無邪気に笑いながら、俺の背中をバシバシと叩いてきた。
「いってぇ! お前、手加減しろよ!」
「アハハ! ごめんごめん。いやー、やっぱ悠真とのゲームは最高だわ。アタシたち、最強のコンビだよね!」
夏海の屈託のない笑顔を見て、俺は先ほどの自分の動揺がバカらしくなった。
「……あぁ、そうだな。最強の悪友だ」
俺は自分に言い聞かせるようにそう答え、再びゲームのスタートボタンを押した。外の嵐は、まだまだ収まりそうになかった。
秋の風が少し肌寒く感じられるようになった頃。俺の心の中に、今まで感じたことのない『謎のバグ』が発生し始めていた。
昼休みの屋上。俺と夏海はいつものように並んで弁当を食べていた。
「なぁ悠真、聞いてよ。今日さ、隣のクラスの鈴木くんに声かけられたんだよね」
夏海が卵焼きを頬張りながら、何気ない口調で言った。
鈴木。隣のクラスのサッカー部エースで、女子からの人気も高い爽やかイケメンだ。俺とは対極にいるような陽キャ中の陽キャである。
「鈴木? ああ、あのキラキラしたやつか。お前みたいなガサツ女に何の用だよ。罰ゲームか?」
「失礼だな! アタシだって一応、女子高生なんですけど! なんかさ、『放課後、ちょっと時間ある? 話したいことがあるんだけど』って言われたの」
その瞬間、俺の箸がピタリと止まった。
「……話したいこと?」
「うん。なんだろね? もしかして、格ゲーの挑戦状かな? あいつ、実は裏でコソコソ練習してて、アタシに勝負を挑む気かも!」
「お前の脳内は格ゲーしかないのか。……普通に考えたら、それってあれだろ。告白とか、そういうやつじゃねえの」
俺がそう言うと、夏海は「ブハッ!」と飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「なっ、ないないない! アタシが? 鈴木くんに? ないわー。アタシ、色気とか皆無だし。悠真もそう思うでしょ?」
「……まあ、お前は色気より食い気だからな」
俺は普段通りのトーンでツッコんだつもりだったが、なぜか声が少し低くなっていた。胸の奥が、ザワザワと嫌な音を立てている。
「でしょ? だから絶対ゲームの話だって。放課後、ちょっと話聞いてくるわ」
「……勝手にしろよ。俺は先にゲーセン行ってるからな」
「うん! 後で行くから、台温めといて!」
夏海は呑気に笑いながら、弁当箱を片付け始めた。
放課後。俺は一人でゲーセンに向かったが、まったくゲームに集中できなかった。
画面の中のキャラクターが動いているのに、俺の頭の中は別の映像で埋め尽くされていた。
夕日に照らされた教室で、鈴木が夏海に向かって照れくさそうに笑いかける姿。夏海が、俺に見せるのとは違う『女の子』の顔でそれに答える姿……。
「……っくそ! なんで俺がこんなにイライラしてんだよ!」
レバーを乱暴に倒し、ボタンを連打する。しかし、動きは精彩を欠き、見ず知らずの対戦相手にあっさりとボコボコにされてしまった。
『K.O.』
画面の文字を虚ろな目で見つめながら、俺は筐体に額を押し当てた。
親友だ。俺と夏海は親友だ。親友に彼氏ができそうなら、応援してやるのが筋じゃないのか? 夏海だって、いつかは誰かと付き合って、俺とこうして馬鹿騒ぎする時間も減っていく。それは当たり前のことだ。
頭では分かっているのに、心が全力でそれを拒絶していた。
「……鈴木の野郎、夏海の何を知ってんだよ。あいつがメロンソーダとカルピス混ぜて喜ぶバカだって知ってんのか? ゲームで負けると本気で泣きそうになるくらい負けず嫌いだって知ってんのか? 知らねえだろ。俺しか、知らねえんだから……」
ボソボソと独り言を呟いている自分に気づき、俺はハッとした。
「俺、キモっ……。何メンヘラみたいなこと言ってんだ……」
「悠真ー! 待たせたな!」
背後から、聞き慣れた明るい声が響いた。振り返ると、息を切らした夏海が立っていた。
「……おせーよ。話、長かったのか」
俺は平静を装って立ち上がり、夏海の方を向いた。
「あー、うん。なんかね、やっぱり悠真の言う通りだったわ。鈴木くん、アタシのこと好きだったみたい」
ドクン、と心臓が重い音を立てた。
「……そっか。で、お前はどう答えたんだよ」
声が震えないように必死だった。
夏海は少し困ったように眉を下げ、頭を掻いた。
「『ごめんなさい』って言ってきた。アタシ、鈴木くんのこと全然知らないし、そういう対象として見れないって」
「……そうか」
「それにさ!」
夏海は急に顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。
「アタシには、悠真っていう最高の相棒がいるしね! 彼氏とか作ったら、悠真とゲームする時間が減っちゃうじゃん。そんなの絶対ヤダし!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中で渦巻いていたドロドロとした感情が、嘘のようにスッと消え去っていった。代わりに、安堵と……ほんの少しの罪悪感が押し寄せてくる。
「……お前、ゲームのために彼氏作らないとか、本当に終わってんな」
「なによー! 悠真だって、彼女作らないじゃん!」
「俺は……別に、今はいいんだよ。お前みたいな手のかかる親友のお守りで忙しいからな」
「むっ、誰がお守りだ! よし、今日はアタシがボコボコにしてやる! 勝負だ悠真!」
「上等だ。返り討ちにしてやるよ」
いつものように筐体に向かい合う俺たち。しかし、俺の中の『謎のバグ』は、消え去ったわけではなかった。むしろ、より深く、静かに俺の心に根を張り始めていたのだ。
俺は、こいつが他の奴の隣で笑うのを、許せない。
その感情の正体に、俺はまだ気づかないふりをしていた。

冬の足音が聞こえ始めた11月。夏海が学校を休んだ。
理由は単純明快、「布団蹴飛ばして寝てたら風邪引いた」である。朝、夏海の母親から俺のスマホに直接連絡があったのだ。
『悠真くんごめーん、うちのアホ娘が熱出しちゃって。私これから仕事で出なきゃいけないから、放課後にでも様子見に行ってやってくれない? 鍵はいつものポストに入れとくから!』
親公認の仲とはいえ、男子高校生に風邪を引いた娘の看病を頼む母親もどうかと思うが、星野家と俺の家は昔からの付き合いなので、もはや家族同然の扱いなのだ。
放課後、俺はスーパーでスポーツドリンクとゼリー、それに消化の良さそうなレトルトのお粥を買い込み、夏海の家に向かった。
ポストから鍵を取り出し、玄関を開ける。
「おーい、夏海。生きてるかー」
返事はない。俺は靴を脱ぎ、勝手知ったる他人の家を上がり、二階の夏海の部屋へと向かった。
ドアをノックしてそっと開けると、ベッドの上に毛布に包まった巨大なイモムシのような物体があった。
「……おい、夏海」
「……んぅ……ゆうま……?」
毛布の中から、いつもよりずっと弱々しい、掠れた声が聞こえた。顔を出した夏海は、頬を真っ赤に染め、息を荒くしている。
「バカは風邪引かないって昔の人は言ってたけど、あれ嘘だったんだな」
「……うっさい……今日くらい、優しくしてよぉ……」
涙目の夏海が恨めしそうに俺を睨む。いつもの威勢の良さは欠片もなく、本当に具合が悪そうだ。
「はいはい。ほら、ゼリー買ってきたぞ。食えるか?」
「……うん。でも、起き上がるのしんどい……」
「甘えんな……って言いたいところだけど、仕方ねえな」
俺はベッドの傍に椅子を引き寄せ、ゼリーの蓋を開けてスプーンですくった。
「ほら、口開けろ。あーん」
「……あーん」
夏海は素直に口を開け、ゼリーを飲み込んだ。
「……冷たくて美味しい」
「だろ。熱、何度あんだよ」
「さんじゅうはちど、ごぶ……」
「結構あんな。薬飲んだか?」
「朝飲んだっきり……」
「じゃあ、これ食ったらもう一回飲んで寝ろ。汗かいてるから、着替えもした方がいいぞ」
俺が世話を焼いていると、夏海はふと、俺の服の袖を弱々しい力で引っ張った。
「……悠真」
「ん?」
「……なんかさ、アタシ、悠真がいないとダメみたい」
熱のせいで思考がフワフワしているのか、夏海はポツリとそんなことを言った。
「……何言ってんだよ。俺がいなくても、お前は一人で生きていける野生のゴリラだろ」
「ちがうもん……。鈴木くんに告白された時もね、アタシ、悠真のことばっかり考えてた。悠真がどう思うかなって……悠真が隣にいないと、アタシ、つまんないの」
その言葉は、俺の胸の奥底に隠していた感情の扉を、いとも簡単にこじ開けた。
熱で潤んだ瞳。いつもは男勝りな彼女が見せる、無防備で弱々しい姿。俺の袖を掴む、小さな手。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が、耳元で鳴っているかのようにうるさい。
(……あぁ、そうか)
俺は、ようやく認めるしかなかった。
俺は、こいつのことが好きなんだ。
ゲーセンで悪態をつき合う親友としてじゃない。隣で笑い合い、時には喧嘩して、それでも一番近くにいたいと思う『女』として、俺は星野夏海に惚れている。
いつからだろうか。出会った日からか、ファミレスでアホなことをしている時か、台風の夜に肩を並べた時か。もうわからない。でも、確実に俺の心はこいつで満たされている。
「……悠真?」
黙り込んだ俺を不思議に思ったのか、夏海が首を傾げた。
「……なんでもない。ほら、食い終わったなら薬飲んで寝ろ。俺は下で待機してるから、なんかあったらスマホ鳴らせ」
「うん……ありがと、悠真」
夏海は安心したように目を閉じ、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。
俺はそっと夏海の部屋を出て、一階のリビングのソファに崩れ落ちた。
「……親友、ね」
俺は両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。
俺たちは『最高の親友』という都合のいい言い訳を使って、お互いの距離を麻痺させていただけだ。でも、もうそのバグ技は通用しない。俺の感情が、限界を迎えてしまったのだから。
「……どうすんだよ、これ」
静かなリビングに、俺の独り言が空しく響いた。俺の心はもう、後戻りできない場所まで来てしまっていた。

夏海の風邪が治り、学校に復帰してからの二週間。俺たちの間には、明らかに不自然な空気が流れていた。
いや、正確には俺が不自然に避けていたのだ。
「悠真! 今日の放課後、新しく出た格ゲーやりに行こうぜ!」
「……わりぃ、今日は委員会があるから無理だ」
「えー? じゃあファミレスでポテト食べよ!」
「……今日は腹減ってない」
夏海からの誘いを、俺はことごとく断っていた。
自覚してしまったからだ。こいつのことが好きだと。
今までの『親友』という仮面を被ったまま、こいつと馬鹿話をしたり、肩を組んだりすることが、急に恐ろしくなった。俺の下心に気づかれたら、この関係は壊れてしまうのではないか。そう思うと、上手くツッコミを入れることすらできなくなっていた。
そして金曜日の放課後。俺が下駄箱で靴を履き替えていると、背後からドンッと背中を蹴られた。
「いってぇ! 何すんだよ!」
振り返ると、般若のような顔をした夏海が立っていた。
「悠真、ちょっと来い」
「は? いや、俺これから用事が……」
「いいから来い!!」
夏海は俺の腕を力一杯掴み、そのまま学校の裏手にある人気の少ない旧校舎の裏まで引きずっていった。
「……で、何だよ」
俺が視線を逸らしながら言うと、夏海はギリッと歯を食いしばった。
「何だよじゃない! 最近の悠真、絶対おかしい! アタシを避けてるでしょ!」
「避けてねえよ。忙しかっただけだ」
「嘘つけ! 委員会なんて嘘だって佐藤から聞いてるんだからね! ……アタシ、なんか悠真を怒らせるようなことした? だったらはっきり言ってよ!」
夏海の声は、震えていた。
俺が顔を上げると、夏海の大きな瞳には涙が浮かんでいた。いつも強気なこいつが、こんなに不安そうな顔をしているのを初めて見た。
「怒ってねーよ……」
「じゃあなんで!」
「……お前と一緒にいるのが、辛くなったんだよ」
俺の口から出た言葉に、夏海はハッと息を呑んだ。
「え……? それって……」
「あぁ。俺はもう、お前の『親友』じゃいられない」
その瞬間、夏海の目からポロリと涙がこぼれ落ちた。
「なんで……なんでよ! アタシたち、最高の相棒じゃん! ずっと一緒にゲーセン行って、馬鹿やって、笑い合える仲じゃん! アタシ、悠真のこと……一番大事なのに……!」
夏海は顔をクシャクシャにして、子供のように泣きじゃくり始めた。
その姿を見て、俺は自分の不甲斐なさに腹が立った。
何を怖がっていたんだ。こいつを泣かせてまで守りたかったのは、居心地のいい『親友』というポジションか? 違うだろ。俺が欲しいのは、そんな中途半端なものじゃない。
俺は一歩踏み出し、泣いている夏海の両肩をガシッと掴んだ。
「夏海、よく聞け」
「……ぐすっ……なに……」
「俺はお前の親友をやめる。……お前の『彼氏』になりたいからだ」
「…………え?」
夏海はピタリと泣き止み、信じられないものを見るような目で俺を見上げた。
「俺は、お前が好きだ。ゲーセンでバカ騒ぎするお前も、変なドリンク作るお前も、風邪引いて甘えてくるお前も、全部好きだ。他の男とお前が笑ってるのを見るだけで、腹が立ってどうにかなりそうだった。だからもう、親友なんてふざけた関係は終わりにしたい」
ボケもツッコミもない、ド直球の告白。
俺の心臓は破裂しそうなほどうるさく鳴っていたが、もう逃げる気はなかった。
夏海はぽかんと口を開けたまま、数秒間フリーズしていた。そして、徐々に顔全体が茹でダコのように真っ赤に染まっていく。
「……は? え? か、彼氏? 悠真が? アタシの?」
「そうだ。嫌なら、今ここで俺を殴って帰れ。二度とゲーセンでも声かけねえから」
俺が覚悟を決めて目を閉じると、夏海の拳が俺の胸をポカッと軽く叩いた。
「……バカ」
「え?」
「悠真のバカ! アタシだって……アタシだって、とっくに親友だなんて思ってなかったよ!」
夏海は顔を真っ赤にしながら、俺の胸に額を押し付けてきた。
「風邪引いた時から、ずっと……悠真のことばっかり考えてた。でも、悠真はアタシのことなんて男友達としか思ってないって思ってて……だから、避けてるんだって思って、すっごく怖かったんだから!」
「……マジか」
「マジだよ! 誰がゲーセンで知り合った男と毎日一緒にいるのよ! 好きじゃなきゃ、そんなことしないっつーの!」
夏海の言葉に、俺は全身の力が抜けていくのを感じた。
なんだよ、それ。俺たち、お互いに『親友』っていう肩書きに縛られて、勝手に勘違いして、勝手に空回ってただけじゃないか。
「……俺たち、本当にバカだな」
「うん、バカだ。世界一のバカ」
俺は苦笑しながら、胸に押し付けられた夏海の頭をそっと撫でた。夏海は少しだけ身をよじらせたが、離れることはなかった。
「じゃあ、これからは親友じゃなくて、彼女だな」
「……うん。よろしく、悠真」
夕日に照らされた旧校舎の裏で、俺たちはようやく、長かった『親友』というバグ技を解除し、新しいステージへの扉を開いたのだ。
月曜日。俺と夏海が親友を引退し、恋人として初めて登校する日。
朝、俺が家の前で待っていると、少しだけ髪を念入りに整えた夏海が走ってきた。
「おはよ、悠真!」
「おう、おはよ。……なんか今日、髪の毛サラサラじゃねえか」
「えへへ、気づいた? 昨日ちょっといいトリートメント使ってみたんだ。彼女っぽいでしょ?」
夏海が照れくさそうに笑う。その笑顔が可愛すぎて、俺は思わず視線を逸らした。
「……まぁ、悪くないんじゃね。ほら、行くぞ」
「あ、待ってよ!」
歩き出した俺の右手に、夏海の手がスッと重なった。指と指が絡み合う、いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
「……お前、こういうの恥ずかしくないのかよ」
「恥ずかしいよ! でも、せっかく彼女になったんだから、これくらいしたいじゃん!」
顔を真っ赤にしながら堂々と言い切る夏海に、俺はため息をつきながらも、繋いだ手をギュッと握り返した。
「……そうだな」
学校に着くと、いつものようにクラスメイトの佐藤が俺たちを見つけてニヤニヤと近づいてきた。
「おっ、お前ら今日も朝から一緒に登校か? 相変わらずラブラブで……って、おい」
佐藤の視線が、俺たちの繋がれた手に釘付けになった。
「お前ら……手、繋いでね?」
今までなら「は? 違うから!」と全力で否定していた場面だ。俺と夏海は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
「あぁ、そうだよ。こいつ、今日から俺の彼女だから」
「アタシ、悠真の彼女になりましたー!」
俺たちが堂々と宣言すると、佐藤は「ええええええ!?」と大げさな声を上げてのけぞった。
「マジで!? お前ら、『親友だから!』とか言って全否定してたじゃん! ついに認めたのかよ!」
「うるせえな。いろいろあったんだよ、いろいろと」
「ていうか、周りから見たらお前ら元々付き合ってるようにしか見えなかったけどな! やっと自覚したか、このバカップル!」
「バカップル言うな! アタシたちはね、最強の『相棒』兼『彼女』なんだから!」
夏海が胸を張って言い返す。そのテンポの良さは、親友時代と何も変わっていない。
放課後。俺たちはいつものようにゲーセンに向かった。
「よし悠真! 恋人になった記念に、今日はアタシが百連勝してやる!」
「バカ言ってんじゃねえ。彼氏の威厳を見せつけて、俺がお前をボコボコにしてやるよ」
筐体に向かい合い、レバーを握る。画面には『FIGHT!』の文字が点滅する。
「っしゃあ! 行くぜ彼氏殿!」
「かかってこい、彼女さんよ!」
激しいボタンの音。飛び交う罵声と歓声。
何も変わっていないように見える日常。でも、筐体越しに見える夏海の笑顔は、以前よりもずっと輝いて見えた。
対戦が終わり、俺たちは外に出た。すっかり暗くなった帰り道。冬の冷たい風が吹く中、俺たちは自然と手を繋いでいた。
「……なぁ、夏海」
「ん?」
「俺たち、付き合っても結局やってること同じだな。ゲーセン行って、ファミレス行って、ボロクソ言い合って」
俺が苦笑しながら言うと、夏海は繋いだ手をブンブンと振り回しながら笑った。
「いいじゃん、それで! アタシはね、悠真とこうやってバカやってる時間が一番好きなの。親友のノリのまま、恋人になれるなんて最高じゃん!」
「……まぁ、それもそうだな。お前が急に大人しい清楚系彼女になったら、俺も調子狂うし」
「でしょ? だから、これからもよろしくね、悠真。最強の彼氏殿!」
夏海は俺の顔を覗き込み、満面の笑みを浮かべた。
「あぁ、任せとけ。俺が一生、お前のツッコミ役をやってやるよ。……愛してるぞ、俺の最強の彼女」
俺が少しだけ照れながらそう言うと、夏海は目を丸くした後、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……そういうの、反則。急に彼氏面してこないでよ……」
「お前が彼氏殿って言ったんだろうが」
「うるさいバカ! あーもう、次ゲーセン行ったら絶対ボコボコにしてやるから!」
「やれるもんならやってみろ」
笑い合いながら、俺たちは夜道を歩いていく。
親友から恋人へ。肩書きは変わったけれど、俺たちの根本的な関係は何も変わらない。
これからもきっと、俺たちはこうやってボケて、ツッコんで、喧嘩して、笑い合って生きていくのだろう。
世界一やかましくて、世界一気が合う。
俺の最強の悪友は、どう見ても、誰がどう見ても――俺の世界一可愛い、最高の彼女なのだ。