タイトル:『俺たち、最高に気が合う「親友」だよな? 〜息をするようにボケる美少女と、過労死寸前の俺〜』
「おいおい、嘘だろ……」
俺、相沢悠真(あいざわ ゆうま)は、目の前の光景に絶望していた。
春の陽気が心地よい四月の昼休み。高校に入学してまだ一週間という初々しい時期に、俺はすでに過酷な生存競争の波に飲まれていた。
場所は、我が校が誇る購買部。ここで毎日限定十個だけ販売されるという「特製・極み焼きそばパン」は、食べ盛りの高校生たちにとってまさに聖杯のごとき存在であった。
チャイムと同時に教室を飛び出し、階段を三段飛ばしで駆け下り、立ちはだかる上級生の壁をスライディングで抜け、ようやくたどり着いた購買のカウンター。
そこには、黄金に輝く最後の一つの焼きそばパンが鎮座していた。
「やった……! これで俺の昼飯は確保され——」
俺が勝利を確信し、右手を伸ばしたその瞬間。
横からスッと伸びてきた白くて細い手が、俺の手と同時に焼きそばパンのパッケージを掴んだのだ。
「む?」
「あ?」
俺は横を向いた。そこには、俺と同じように焼きそばパンを掴んで離さない女子生徒がいた。
さらさらと流れるような黒髪のセミロング。ぱっちりとした二重の大きな瞳。春の陽光を受けてきらきらと輝くような、誰もが振り返るレベルの美少女だった。
だが、その美少女の口から発せられた言葉は、俺の鼓膜を大いに疑わせるものだった。
「おいおい、そこの少年。悪いがこの『極み焼きそばパン』は私の命がかかっているんだ。手を離してくれないか? さもなくば、貴様の脳天に唐竹割りをくらわすことになるぞ」
……なんだこいつ。見た目は清楚系美少女なのに、中身は戦国武将か何かか?
「いやいや、お嬢さん。奇遇だな。俺もこれがないと午後の古文の授業で確実に餓死する運命にあるんだ。譲る気は毛頭ないね。そもそも俺の方が0.02秒早くタッチしていたはずだ」
「はっ! 笑わせるな。私の動体視力はマッハを超えている。どう見ても私の指先が先だったね。だいたい、こんなか弱い乙女から昼飯を奪うなんて、男として恥ずかしくないのか!」
「か弱い乙女は脳天に唐竹割りとか物騒なこと言わねえんだよ! そもそもお前、さっき上級生の群れをショルダータックルで吹き飛ばしてただろ! 見てたぞ!」
俺の的確なツッコミに、彼女は「チッ、見られていたか」と舌打ちをした。清楚系美少女が舌打ちとか、ギャップ萌えどころかただのヤンキーである。
「……仕方ない」
彼女はふう、と大げさにため息をついた。
「これ以上争っても無駄な血が流れるだけだ。ここは一つ、休戦協定を結ぼうじゃないか」
「休戦協定?」
「ああ。この焼きそばパンを、真っ二つに分断する。ソロモンの裁きというやつだ」
「それを言うなら平和的解決って言えよ。まあ、半分ずつなら俺も妥協できる」
こうして俺たちは、購買のおばちゃんに「早くお金払いなさいよ」と急かされながら折半して会計を済ませ、戦利品を手にして屋上へと向かった。
屋上は春風が吹き抜け、絶好のランチスポットだった。
俺たちはベンチに並んで座り、焼きそばパンを慎重に半分に割った。
「私が大きい方な」
「バカ言え、ミリ単位で同じ大きさに決まってんだろ! ほら、こっちの青のりが多い方がお前だ」
「むっ、気が利くじゃないか少年。私は星野結衣(ほしの ゆい)だ。お前は?」
「相沢悠真。……つーか、お前、見た目と中身のギャップがひどすぎないか?」
焼きそばパンを大口で頬張りながら、結衣は「んふー」と満足そうに鼻を鳴らした。
「よく言われる。黙ってればモテるのにってな! でも私は私を偽らない。本能のままに生きるのだ!」
「堂々と言うことじゃねえよ。まあ、裏表がなくて楽だけどな」
そこから、俺たちの会話はなぜか異様に弾んだ。
話題は昨晩やっていた深夜アニメから、最近発売されたオープンワールドのRPGゲームの話題へ。
「あのボスの第二形態、エグすぎないか? 炎の全体攻撃で私のパーティー、一瞬で消し炭になったんだけど」
「あー、あれな。事前に氷属性の耐性アクセサリ装備させとかないと詰むぞ。俺は三回全滅してようやくパターン読めたわ」
「マジか! 相沢、お前ゲームの才能あるな! 今度私に攻略法教えろ!」
「お安い御用だ。お前、女なのにそういうゴリゴリの死にゲーやるんだな」
「性別なんて関係ないね! 面白いゲームは人類共通の財産だ!」
バンッ! と結衣は俺の肩を力強く叩いた。痛い。こいつ、やっぱり腕力がおかしい。
だが、嫌な気は全くしなかった。むしろ、こんなに気兼ねなく趣味の話で盛り上がれる相手は、同性の友達でもなかなかいない。
「お前、いいやつだな。なんだか最高のダチになれそうな気がするわ」
俺が素直な感想を口にすると、結衣は目を輝かせてニカッと笑った。
「おっ、言うねえ! 私も全く同じこと思ってた! よし、今日から私たちは戦友(とも)だ! 命を預け合う仲として、これからもよろしく頼むぞ、相棒!」
「戦友ってなんだよ、いつからここは戦場になったんだ。まあ、よろしくな、結衣」
「おう! 悠真!」
これが、俺と星野結衣の出会いだった。
恋愛フラグなんて微塵も立たない、焼きそばパンから始まった、男同士のような熱い友情。
俺たちはこの日、お互いを「最高の親友」だと認定したのだった。

高校生活が始まって数ヶ月。
俺と結衣は、クラスでも公認の「いつも一緒にいる二人」になっていた。
朝は偶然(という名の待ち合わせで)駅で合流し、昼は屋上か中庭で一緒に弁当を食べ、放課後は寄り道をして帰る。
客観的に見れば、どう見てもカップルのそれである。
「なぁ相沢。お前と星野さんって、絶対付き合ってるよね?」
体育の授業前、着替えながらクラスメイトの男子・鈴木がニヤニヤしながら聞いてきた。
「は? 何言ってんだお前。俺とあいつはただの腐れ縁、いや、最高の親友だから! 男女の友情ってやつだよ」
俺が即座に否定すると、鈴木は信じられないという顔をした。
「いやいや、無理あるって。あんな美少女と毎日一緒にいて、何も意識しないとかお前、聖人君子かよ」
「美少女って……お前ら、あいつのガワしか見てないからそんなこと言えるんだよ。あいつの中身、その辺のおっさんよりおっさんだぞ」
「贅沢な悩みだなー。俺なんて星野さんに『おはよう』って言われただけで三日眠れなかったのに」
「お前の耐久力が低すぎるだけだろ」
そんな会話をしながら、俺は心底呆れていた。
結衣と恋愛? ないない。あんな息をするようにボケ倒す女を彼女にしたら、俺の胃に穴が空いてしまう。
その日の放課後。
俺と結衣は、駅前のファミレスのボックス席に向かい合って座っていた。
「よーし、今日は私が奢ってやろう! 好きなものを頼みたまえ、庶民よ!」
結衣はメニュー表をバサッと広げ、ふんぞり返った。
「お、珍しいな。臨時収入でもあったのか?」
「フフフ……実はな、道端で百円玉を拾って交番に届けたら、お巡りさんに『偉いね』って褒められたんだ!」
「それお前の懐は一円も潤ってないだろ! むしろなんでそれで奢れる気になったんだよ!」
「気分の問題だよ、気分! 心の豊かさが財布の豊かさなのだ!」
「物理法則を無視するな。結局俺が自分の分払う羽目になるんだろうが」
俺はため息をつきながら、ハンバーグセットを注文した。結衣はドリアと大盛りポテト、さらにデザートのパフェまで頼んでいる。こいつの胃袋はブラックホールか何かか。
ドリンクバーに行き、俺がメロンソーダを注いでいると、隣で結衣が不敵な笑みを浮かべながら複数のボタンを同時に押していた。
「……お前、何してんの?」
「ふふふ。コーラとカルピスとオレンジジュースとウーロン茶の黄金比ブレンド。名付けて『カオス・レクイエム』だ」
「名前からして腹壊しそうだな。絶対飲まねえぞ」
「まあまあ、一口飲んでみろって。飛ぶぞ?」
「物理的に天に召されそうだから遠慮しとくわ!」
席に戻り、料理が運ばれてくると、結衣は目を輝かせてポテトに手を伸ばした。
しかし、彼女がドリアに夢中になっている隙に、俺はこっそりとポテトを一本つまんで口に入れた。
数分後。
「……む? 悠真、お前、私の愛しのポテトちゃんを一本食べただろ」
結衣がジロリと俺を睨みつけた。
「は? 食ってねーよ」
「嘘をつけ! 私の完璧なポテト計算式によれば、当初四十五本あったポテトが、現在四十四本に減っている! 犯人はお前しかいない!」
「どんだけポテトに執着してんだよ! 数えてたのかよ気持ち悪いな!」
「ポテトの恨みは海より深いんだぞ! 返せ、私のポテトを!」
「胃の中だよ! つーか、お前さっき俺のハンバーグの付け合わせのブロッコリー勝手に食っただろ!」
「あれはブロッコリーが『私を食べて』と訴えかけてきたから救済しただけだ!」
「どんな電波受信してんだお前は!」
ギャーギャーと言い合っていると、隣の席に座っていたおばさん二人組が、微笑ましそうにこちらを見ていた。
「あらあら、あそこのカップル、とっても仲がいいわねぇ」
「本当ね、若いって素晴らしいわ」
その声が聞こえた瞬間、俺と結衣はピタリと動きを止め、同時に隣の席に向かって顔を向けた。
「「誰がカップルですか!!!」」
見事なハモリだった。おばさんたちは「あらあら、息ぴったりね」とさらにニコニコしている。
「おい悠真、お前が変なこと言うから勘違いされたじゃないか」
「お前のボケが原因だろ。俺は被害者だ」
「まあいい。私たちは最高の親友だからな! カップルなんて甘っちょろい関係に収まる器じゃないのだ」
「自分で器とか言うな。でもまあ、ダチとしては最高なのは認めるよ」
結衣は満足そうに「ふふん」と鼻を鳴らし、再びドリアにがっつき始めた。
口の周りにソースをつけて無邪気に笑うその顔は、悔しいくらいに可愛い。
……いやいや、俺は何を考えているんだ。こいつは親友だ。戦友だ。
俺は自分の頭を振り、ハンバーグを口に放り込んだ。俺のツッコミ係としての日常は、まだまだ前途多難である。

「お邪魔しまーす!!」
週末の土曜日。夕方六時。
俺の家の玄関のドアを元気よく開け放ったのは、大きなリュックを背負った結衣だった。
「声がでかい。近所迷惑だろ」
「細かいことは気にするな! ほら、約束通り新作の『モンスターハンティング・レボリューション』買ってきたぞ! 今日は徹夜で狩りまくるぞ!」
俺の両親は今日から一泊二日の温泉旅行に出かけており、家には俺一人しかいなかった。
その情報をどこからか嗅ぎつけた結衣は、「じゃあ絶好のゲーム日和だな!」と、我が家への泊まり込みゲーム大会を提案してきたのだ。
「お前さ……一応言っとくけど、親がいない男の家に、女子が一人で泊まりに来るとか、危機感なさすぎないか?」
俺が呆れたように言うと、結衣は靴を脱ぎながらキョトンとした顔をした。
「は? なんで? お前は悠真だろ?」
「いや、俺も生物学上は一応、健康な男子高校生なんだけど」
「ハッハッハ! 冗談きついぞ悠真。お前が私を女として見て襲ってくる確率より、私がこのゲームの最初のガチャでSSRの武器を引く確率の方が圧倒的に高いね!」
「……それはそれで、男としてなんか傷つくわ」
結衣は俺の部屋に入ると、勝手知ったる様子でテレビの前に座布団を敷き、ゲーム機をセッティングし始めた。
こいつにとって、俺は本当にただの「気の合う男友達」でしかないらしい。まあ、俺もこいつを異性として意識したことは……ない、はずだ。
「ほら、悠真! 早くコントローラー持て! クエストが始まるぞ!」
「わかってるよ。焦んな」
それから数時間。俺たちは画面に向かって叫び続けていた。
「おい結衣! 回復! 回復魔法遅い!」
「うるさい! 今、敵の尻尾のなぎ払いを華麗に回避してる最中だ! お前がポーション飲め!」
「俺はヘイト集めてタンカーやってんだよ! ああクソ、死んだ!」
「うわあああ! 私も死んだ! 全滅だぁぁぁ!」
ゲームオーバーの画面を前に、俺たちは同時に床に倒れ込んだ。
「……なぁ、このボス、強すぎないか?」
「……ああ。完全に私たちのレベルを超えている。だが、ここで諦める私たちではない!」
時計を見ると、すでに深夜二時を回っていた。
テーブルの上には、空になったコーラのペットボトルと、ポテトチップスの残骸が散乱している。
「よし、作戦会議だ。私が囮になるから、お前が後ろから……」
結衣が体を起こし、俺の方へ身を乗り出してきた。
その瞬間、彼女の顔が俺の顔の数センチの距離に近づいた。
シャンプーの甘い香りが、ふわりと俺の鼻腔をくすぐる。
ゲームに夢中で気づかなかったが、結衣は風呂上がりで、いつも結んでいる髪を下ろしていた。
サラサラの黒髪が俺の肩に触れ、彼女の大きな瞳が真剣な光を帯びて俺を見つめている。
至近距離で見る彼女の肌は、信じられないほど白くて滑らかだった。
「……悠真? どうした、顔が赤いぞ。さてはゲームのやりすぎで知恵熱が出たか?」
結衣が不思議そうに首を傾げ、俺の額にペタッと冷たい手を当ててきた。
「っ……!!」
俺は慌てて体を後ろにのけぞらせた。
「な、なんでもない! ちょっとコーラ飲みすぎてテンション上がっただけだ!」
「ふーん? 変なやつ。まあいい、じゃあリベンジ行くぞ!」
結衣は再び画面に向き直ったが、俺の心臓はさっきから早鐘のように鳴り続けていた。
ヤバい。さっきの瞬間、俺は間違いなくこいつを「可愛い」と思ってしまった。
いやいやいや、落ち着け相沢悠真。相手はあの星野結衣だぞ。購買部で脳天唐竹割りとか言ってた野生児だぞ。親友だろ。ダチだろ!
その後、気を取り直してゲームを再開したが、俺のプレイは明らかに精彩を欠いていた。
「よし、討伐完了! ……って、あれ? 悠真?」
結衣の声にハッとして横を見ると、彼女はコントローラーを握ったまま、コクリコクリと船を漕いでいた。
「おい、結衣。寝るならベッド使えよ」
俺が声をかけたが、返事はない。
やがて、彼女の体がゆっくりと傾き——トン、と俺の肩に寄りかかってきた。
「……すー……すー……」
規則正しい寝息が聞こえる。完全に寝落ちしている。
俺の肩には、彼女の頭の重みと、じんわりとした温もりが伝わってきた。
「無防備すぎるだろ、バカ……」
俺は小さくため息をつきながら、そっと彼女の顔を見下ろした。
起きている時はギャーギャーうるさくて、ボケ倒して、表情がコロコロ変わるのに。
寝ている時のこいつは、本当にただの美少女だ。長いまつ毛、形の良い唇。
触れてみたい、という衝動が指先に走ったが、俺はそれを必死に理性の奥底に押し込んだ。
「俺たちは、最高の親友だからな」
誰に言い聞かせるでもなくそう呟き、俺は近くにあった毛布をそっと結衣の肩にかけた。
親友の特権。そう、これは親友だからこそ許される距離感なんだ。
俺は自分にそう言い聞かせながら、窓の外が白んでくるまで、肩の重みを感じたまま静かに時間を過ごした。
季節は少し進み、梅雨の気配を感じる六月の初旬。
その日、俺は放課後の学校の裏庭で、見てはいけないものを見てしまった。
「星野さん! 前からずっと、好きでした! 俺と付き合ってください!」
旧校舎の裏にある大きな桜の木の下。
結衣が、他クラスの男子生徒から告白されていたのだ。
相手はサッカー部のエースで、学年でもトップクラスのイケメンとして名高い高橋だった。
俺は偶然、図書室へ本を返しに行く途中でその場に出くわしてしまい、反射的に校舎の角に身を隠してしまった。
……なんで俺が隠れなきゃいけないんだ。
別に俺と結衣は付き合っているわけでもない。ただの親友だ。結衣が誰から告白されようが、誰と付き合おうが、俺には関係のないことだ。
そう頭ではわかっているのに、なぜか胸の奥がざわざわと波立ち、胃のあたりが鉛を飲んだように重くなった。
結衣は、いつも俺に見せるおちゃらけた表情とは違う、真剣な顔で高橋の言葉を聞いていた。
「……ありがとう、高橋くん。私なんかのことを好きになってくれて」
結衣の声が微かに聞こえる。
おいおい、まさか。あの結衣が、イケメンの告白に絆されてOKするのか?
もし結衣に彼氏ができたら、俺たちの関係はどうなる?
今までみたいに一緒にアホなことで笑い合ったり、ファミレスでポテトを奪い合ったり、徹夜でゲームをしたり……そういう「親友の特権」は、全部その彼氏のものになるのか?
想像しただけで、猛烈な苛立ちが湧き上がってきた。
「でも、ごめんなさい」
結衣の澄んだ声が、静かな裏庭に響いた。
「え……? 俺じゃ、ダメかな?」
高橋が食い下がる。
「高橋くんはかっこいいし、優しいし、すごく素敵な人だと思う。でもね……私には今、一緒にいて一番楽しい『相棒』がいるんだ」
相棒。その言葉に、俺の心臓がドクンと跳ねた。
「そいつ、口は悪いし、ツッコミはいちいち細かいし、たまに私のポテト勝手に食べるし、ムカつくことも多いんだけど……。でも、私がどんなにくだらないボケをしても、絶対に0.1秒でツッコミを入れてくれるんだ。私、そいつのツッコミがないと生きていけない体になっちゃったみたいでさ」
結衣はそう言って、照れくさそうに、でも最高に嬉しそうに笑った。
「だから、ごめん。私は今の関係が一番大切だから、誰かと付き合う気はないんだ」
高橋はしばらく呆然としていたが、やがて諦めたように「……そっか。なんか、敵わないな。わかった、ごめん」と頭を下げて去っていった。
高橋の姿が見えなくなった後、結衣は「ふうーっ」と大きく背伸びをした。
俺は隠れているのも馬鹿らしくなり、ゆっくりと角から姿を現した。
「よっ。モテモテだな、星野さん」
俺がわざとらしく声をかけると、結衣は「うおっ!?」とカエルのような声を出して飛び上がった。
「ゆ、悠真! お前、いつからそこに!?」
「『前からずっと、好きでした!』のあたりから」
「全部聞いてるじゃないか!! 盗み聞きとは趣味が悪いぞ!」
結衣は顔を真っ赤にして、俺に駆け寄りポカポカと肩を叩いてきた。
「痛えよ。偶然通りかかっただけだ。……にしても、もったいねーな。あいつ、サッカー部のイケメンだぞ。付き合えばお前もリア充の仲間入りだったのに」
俺は努めて軽い口調でそう言った。自分の本心を隠すように。
すると結衣は、ぴたりと手を止め、俺をジト目で睨みつけた。
「はぁ? 何言ってんだお前。顔が良くても、私のボケを全部拾ってくれないと意味ないだろうが」
「お前の彼氏の条件、お笑い審査員か何かか?」
「違う! 私はな、自分が素のままでいられる相手じゃないと嫌なんだよ。気取って可愛い彼女なんて演じられないし。だから、お前が責任取れ」
「……は? 責任?」
「そう! お前が私をこんなツッコミ待ちの体に仕立て上げたんだ! だからお前は、一生私の専属ツッコミ係に任命する! 拒否権はない!」
結衣はビシッと俺に指を突きつけてきた。
その無茶苦茶な論理に、俺は思わず吹き出してしまった。
「なんだその理不尽な任命。ブラック企業も真っ青だぞ」
「ふふん、光栄に思え! さあ、そうと決まったら購買にダッシュだ! 今日は私がジュース奢ってやる!」
結衣は俺の腕を掴み、強引に引っ張り歩き始めた。
腕から伝わる結衣の体温。
さっきまで胸の奥にあった黒いモヤモヤは、嘘のように晴れ渡っていた。
「俺のツッコミ待ちかよ」
俺は小さく呟き、安堵している自分に気づいた。
彼女が他の誰かのものにならなくてよかった。
俺の隣で、俺にだけその笑顔を向けてくれてよかった。
この感情の正体が「嫉妬」だなんて、俺は絶対に認めたくない。
だって俺たちは、最高の親友なんだから。
そう、これは親友としての、当然の独占欲だ。……たぶん。
夏休み真っ只中の八月中旬。
今日は地元の神社で、年に一度の大きな夏祭りが開催される日だ。
「夕方六時に神社の鳥居前で待ち合わせな! 遅れたら罰金一万円だからな!」
という理不尽なLINEを受け取っていた俺は、五時五十分には現地に到着していた。
「あちー……」
甚平を着てきたものの、夕暮れ時でも夏の熱気は容赦なく肌を刺す。
周囲はすでに浴衣姿のカップルや家族連れでごった返していた。
そんな中、俺はスマホをいじりながら結衣を待っていた。
「おーい、悠真! 待たせたな!」
人混みの向こうから、聞き慣れた元気な声がした。
顔を上げた俺は、思わず息を呑んだ。
「……お前、誰だ?」
そこに立っていたのは、紺色の生地に色鮮やかな朝顔が描かれた浴衣を着た、見目麗しい美少女だった。
髪は綺麗にアップにまとめられ、うなじが白く輝いている。普段のガサツな様子からは想像もつかないほど、凛とした色香を放っていた。
「失礼な! 絶世の美少女、星野結衣ちゃんだろうが! なんだその目は、私の美しさに惚れたか?」
結衣はふんぞり返ってドヤ顔を決めたが、そのせいでせっかくの清楚な雰囲気が一瞬で台無しになった。
「いや、チンパンジーが服着てるなと思って。それに歩き方がガニ股だぞ。浴衣着てる時くらいしおらしくしろ」
「誰がチンパンジーだ! 今日は乙女モードで来てやったというのに、お前のその口の悪さは相変わらずだな!」
「お前がツッコミ待ちの顔してたからだろ。……まあ、似合ってはいるよ。悪くない」
俺が少しだけ素直に褒めると、結衣は一瞬ポカンとして、それからパッと顔を赤くした。
「お、おう。……ありがと」
なんだこの空気。親友同士のお祭りなのに、変に意識してしまっている自分がいる。
気を取り直すように、俺は「行くぞ」と声をかけ、屋台が並ぶ参道へと歩き出した。
祭りは大盛況で、進むのも困難なほどの人混みだった。
「おい悠真、あそこのたこ焼き美味そうだぞ! 行こう!」
「待て、引っ張るな。はぐれるだろ」
結衣は興奮してあちこちの屋台に突撃しようとするが、人波に押し流されそうになっている。
「うわっ、ちょっと押さないで……」
結衣がバランスを崩しそうになったその瞬間。
俺は無意識に手を伸ばし、彼女の細い手首をガシッと掴んだ。
「あっ……」
結衣が驚いたようにこちらを振り向く。
「だから言っただろ。……迷子になったら面倒だからな。ほら、手」
俺は手首から手を滑らせ、彼女の指先に自分の指を絡め、しっかりと手を繋いだ。
「な、なにすんだよ。子供扱いすんな」
結衣は口では文句を言いながらも、手は振り解こうとしなかった。それどころか、俺の手にギュッと力を込めて握り返してきた。
繋いだ手から、結衣の少し高い体温が伝わってくる。
心臓が、バグったように激しく脈打ち始めた。
ドッドッドッと、周囲の祭りの喧騒をかき消すほどうるさい。
俺は前を向いたまま、結衣の顔を見ることができなかった。結衣もまた、黙って俯きがちに俺の後ろをついてくる。
いつもなら「お前の手、汗かいてて気持ち悪いぞ!」とか茶化してくるはずなのに、今日はなぜか無言だ。その沈黙が、さらに俺の心拍数を加速させる。
「なぁ、結衣」
「……ん?」
「これって、親友の範疇か?」
俺は思わず、ずっと頭の片隅にあった疑問を口にしてしまった。
親友同士で、男女が手を繋いで歩く。これは世間一般的に見て、どうなんだ?
しばらくの沈黙の後、結衣は小さな声で答えた。
「……親友なら、手くらい繋ぐだろ、たぶん」
「たぶんってなんだよ」
「迷子防止という大義名分があるからセーフだ。これは非常事態における一時的な措置であり、他意はない!」
「……そうだな。俺も、お前が迷子センターで泣き叫ぶのを見るのは忍びないから、仕方なく繋いでやってるだけだ」
「誰が泣き叫ぶか!」
お互いに苦しい言い訳を並べ立てながら、俺たちは決してその手を離そうとはしなかった。
りんご飴を買う時も、射的をやる時も、花火を見るために神社の裏手に移動する時も。
俺たちは「親友という免罪符」を盾にしながら、その実、お互いの温もりを手放したくないだけだという事実に、薄々気づき始めていた。
夜空に大きな打ち上げ花火が咲き乱れ、結衣の横顔を鮮やかに照らし出す。
その横顔に見惚れながら、俺は確信した。
俺はもう、こいつをただの親友だなんて思えない。
親友という言葉で誤魔化すには、俺の感情はあまりにも大きくなりすぎていた。
季節は秋へ移り変わり、学校は一年で一番の盛り上がりを見せる文化祭の日を迎えていた。
俺たちのクラスは定番の「お化け屋敷」をやることになり、俺と結衣はペアで驚かし役を担当した。
結衣が白装束の幽霊、俺が血まみれのゾンビというカオスな組み合わせだったが、結衣の「ウラメシヤァァァ!!」という無駄に迫力のある絶叫と、俺の「いや幽霊が物理攻撃してくんなよ!」というツッコミのコンビネーションが謎の好評を博し、お化け屋敷は大成功に終わった。
そして現在、時刻は午後七時。
文化祭のフィナーレを飾る後夜祭。グラウンドの中央では巨大なキャンプファイヤーが燃え盛っている。
生徒たちは火の周りで踊ったり、写真を撮ったり、あるいは意中の相手を呼び出して告白したりと思い思いの時間を過ごしていた。
俺と結衣は、その喧騒から少し離れたグラウンドの隅のベンチに座り、遠くで燃える炎をぼんやりと眺めていた。
手には、屋台の売れ残りの焼きそばとラムネ。
「ふう……疲れたな。私の完璧な幽霊演技のせいで、喉がガラガラだ」
「お前のあれは幽霊じゃなくてただの野蛮人だっただろ。客が本気で泣いてたぞ」
「泣くほど感動してくれたってことだ! 才能あるな私!」
いつものように軽口を叩き合う。
だが、その声のトーンはどこか落ち着いていて、祭りの終わりのような、少しの寂しさと甘い空気が二人の間に漂っていた。
「……なぁ、結衣」
俺はラムネの瓶をベンチに置き、真剣な声で彼女の名前を呼んだ。
「んー? どうした、改まって」
「俺たち、親友だよな」
俺の言葉に、結衣は少しだけ肩をビクッと震わせた後、炎から目を逸らさずに答えた。
「当たり前だろ。宇宙一のな」
「……そうだよな」
俺は膝の上で両手を強く握りしめた。
親友。その言葉は今まで、俺たちを繋ぐ最強の盾だった。
どんなに一緒にいても、どんなに距離が近くても、「親友だから」という一言ですべてが許されてきた。
だが、もう限界だ。
「でもさ……俺、最近おかしいんだよ」
「おかしいって?」
「お前が他の男と話してたり、笑い合ったりすんの、想像しただけで腹が立つんだわ。高橋に告白されてた時も、本当はめちゃくちゃ焦ってた。お前が誰かのものになるんじゃないかって」
俺が正直な思いを吐露すると、結衣はゆっくりとこちらを向いた。
その瞳は、キャンプファイヤーの光を反射して、揺らめくように輝いていた。
「俺は、お前にだけツッコミを入れていたいし、お前のボケを一番近くで見ていたい。これって……もう、親友の枠、超えてるよな」
俺がそう言い切ると、結衣はふっと息を吐き、自嘲気味に笑った。
「……バカ悠真」
「バカってなんだよ」
「遅いよ。私のボケへのツッコミは0.1秒のくせに、こういうことに気づくのは半年もかかるんだ。ポンコツツッコミめ」
結衣はそう言いながら、俺の隣にすり寄ってきた。
そして、俺のジャージの袖をギュッと掴む。
「……私もだよ。お前が他の女にツッコミ入れてたら、そいつの頭カチ割りたくなるくらい嫉妬する。お祭りの時、手繋いでくれたの、本当は心臓爆発するくらい嬉しかった。親友だからって言い訳しないと、恥ずかしくて死にそうだったんだ」
結衣の顔は真っ赤に染まっていた。炎のせいだけじゃない。
あの大雑把で、色気より食い気で、俺と焼きそばパンを奪い合ったあの結衣が、今、信じられないくらい乙女の顔をしている。
「……俺たち、もう親友やめるか」
俺がそう言うと、結衣は少しだけ不安そうな顔で俺を見上げた。
「やめて、どうなるんだよ」
「決まってんだろ。親友以上の関係になるんだよ」
俺は結衣の肩に手を回し、自分の方へと引き寄せた。
結衣の体がビクッとこわばったが、抵抗はしなかった。
「好きだ、結衣。親友としてじゃなく、女として。俺の彼女になってくれ」
まっすぐに目を見て告げた俺の言葉に、結衣は瞳を潤ませ、それから、いつものニカッとした、最高に眩しい笑顔を浮かべた。
「……おう! 喜んで任命されてやる! これからも私の専属ツッコミ係兼、彼氏として、一生私の隣にいろよな、悠真!」
「ああ。覚悟しとくよ」
俺たちはキャンプファイヤーの炎に照らされながら、誰にも見られないように、そっと手を繋いだ。
今まで「親友」という言い訳付きで繋いでいた手は、今度は何の言い訳もいらない、恋人同士の確かな温もりとして、俺たちの間に存在していた。

文化祭から数日が経った、ある秋の朝。
「おはよう、マイハニー!」
教室のドアを蹴破るような勢いで入ってきたのは、俺の頭痛の種であり、そして──まあ、認めたくはないが──最高の彼女でもある、星野結衣だ。
「朝からテンション高くてうざいぞ、ダーリン。あとドア壊れたらお前の小遣いから弁償だぞ」
俺がすかさずツッコミを入れると、結衣は「ちぇっ」と口を尖らせながら俺の前の席にドカッと座った。
「なんだよ、せっかくカップルっぽく甘々な挨拶をしてやったのに、お前は相変わらず冷たい男だな!」
「お前のそのノリのどこが甘々なんだよ。アメリカのB級コメディ映画か」
「むっ、ならこれでどうだ!」
結衣は周りの目を盗むように、机の下でスッと俺の手に自分の手を重ね、指を絡めてきた。
「……付き合ってる感、出してみた」
少し上目遣いで、顔を赤らめながらそう言ってくる結衣。
そのギャップ攻撃は反則だ。俺の心臓は一瞬でレッドゾーンに突入した。
「……似合わねえな」
俺は照れ隠しでそっぽを向きながらも、繋がれた手をギュッと握り返した。
「ふふん、照れてる照れてる。可愛い奴め」
「うっさい」
そんな俺たちのやり取りを見ていたクラスメイトの鈴木が、呆れたような顔で近づいてきた。
「お前らさぁ……ついに付き合ったのか?」
俺と結衣は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
「いやー、ついにただの親友から彼氏彼女に昇格しちゃいまして」
俺がそう言うと、結衣も胸を張って答える。
「私が広い心でこいつをもらってやったんだよ! 感謝しろ悠真!」
「お前が頼み込んできたんだろうが!」
鈴木は深くため息をつき、天を仰いだ。
「……やっとかよ。クラスの全員が『あいつら絶対付き合ってるだろ』って思ってたのに、本人たちだけ『親友だし』とか言ってて、見てるこっちがもどかしくて死にそうだったわ! おせーよ!」
「えっ、みんな気づいてたの?」
結衣が驚いたように目を丸くすると、周囲のクラスメイトたちも一斉に「当たり前だろ!」「鈍感すぎ!」とツッコミを入れてきた。
「なんだよ、私たちってそんなにわかりやすかったのか?」
「お前が俺のポテトを勝手に食う時点で、ただの友達の距離感じゃなかったんだよ」
「それはお前が隙を見せるからだろ!」
「またそれか!」
教室中が笑いに包まれる。
結局、俺たちが恋人同士になっても、表面上のノリは何も変わらなかった。
息をするようにボケる結衣と、それに過労死寸前になりながらツッコミを入れる俺。
周りから見れば、相変わらず「男同士の最高の友情」みたいなバカ騒ぎをしているように見えるだろう。
でも、変わったこともある。
例えば、帰り道に堂々と手を繋いで歩けるようになったこと。
ゲーム中に結衣が寝落ちした時、遠慮せずにその頭を撫でられるようになったこと。
そして、「親友」という言葉で誤魔化さなくても、「好きだ」と真っ直ぐに伝えられるようになったことだ。
放課後。
いつものファミレスで、いつものようにポテトを巡る攻防戦を繰り広げた後。
帰り道の夕暮れの土手を、俺たちは手を繋いで歩いていた。
「なぁ悠真」
「ん?」
「私たち、恋人になったけどさ。……これからも、最高のダチでいてくれるか?」
結衣が少し不安そうに、俺の顔を見上げてきた。
恋人になったからといって、今まで築き上げてきた「親友」としての楽しい関係が壊れてしまうのではないか。彼女なりにそんな心配をしていたのだろう。
俺は足を止め、結衣の方を向いた。そして、空いている方の手で、彼女の頭をポンと叩いた。
「当たり前だろ。俺はお前の彼氏である前に、宇宙一の相棒だ。お前のボケに俺以外の奴がツッコミを入れるなんて、絶対に許さねえからな」
その言葉を聞いて、結衣の顔にパァッと花が咲いたような笑顔が広がった。
「うんっ! よろしくな、私の最高の相棒で、彼氏!」
「おう。よろしく、俺の最高の親友で、彼女」
俺たちは笑い合い、繋いだ手にさらにギュッと力を込めた。
これからも俺の毎日は、こいつのボケとトラブルに振り回される騒がしい日々になるだろう。胃薬は手放せないかもしれない。
でも、それ以上に、こいつの隣にいることが何よりも幸せだと、今は胸を張って言える。
親友アップデート、完了。
俺たちの新しい、そして最高の関係は、まだ始まったばかりだ。