タイトル:『俺たち、最高のダチだよな? ~なお、周囲からは夫婦扱いされている模様~』
高校生活のスタートというのは、誰しも少なからず緊張するものである。
真新しい制服、見慣れない顔ぶれ、黒板に貼り出された座席表。四月の生ぬるい春風が窓から吹き込む教室で、俺――相葉 悠真(あいば ゆうま)は、自分の席である「窓際の後ろから二番目」という、ラノベ主人公特権のようなポジションに腰を下ろし、静かに息を吐いた。
とりあえず、平穏無事に高校生活を送りたい。変に目立つことなく、気の合う友人を数人作り、そこそこの成績をキープして、ゲームや漫画といった自分の趣味に没頭する。それが俺の描く理想の三年間だった。
「よっこらしょっと! ふぅー、間に合ったー!」
そんな俺のささやかな願いは、隣の席にドカッと鞄を放り投げ、勢いよく着席した女子生徒によって、開始早々わずか五分で打ち砕かれることになる。
彼女の名前は星野 結愛(ほしの ゆあ)。
肩口で切りそろえられたショートボブの髪を揺らし、くりっとした大きな瞳を輝かせている。制服の着こなしはどこかラフで、一言で言えば「元気いっぱいの小動物」のような第一印象だった。
「あ、やっべ。消しゴム落とした」
結愛が呟き、俺の足元に転がってきた四角い物体。俺は「あ、拾うよ」と声をかけ、親切心から机の下へと手を伸ばした。
しかし、彼女も全く同じタイミングで机の下に潜り込んできたのだ。
――ゴツンッ!!
「いっっっっっっっっっっっったあああ!?」
「痛っ!? ちょ、お前頭固すぎだろ! 石ころでも詰まってんのか!?」
教室中に響き渡る鈍い音と、俺の叫び声。そして、涙目で額を押さえる結愛からの理不尽な暴言。
「そっちこそ石頭だろ! てか、初対面の同級生に向かって『お前』ってなんだ!」
「あ、ごめん! ……って、お前も今、私のこと『お前』って言っただろ!」
「お前が先にお前って言ったから、売り言葉に買い言葉でお前って言ったんだよ!」
「なんだと!? もう一回頭突きかましてやろうか!」
「やめろ! 俺の脳細胞が死滅する!」
入学初日、まだ静まり返っていた教室の空気が、俺たちの漫才のようなやり取りによって一気に崩壊した。周囲のクラスメイトたちが「なんだあいつら……」「もう幼馴染のケンカ始まってるぞ」とヒソヒソ囁き合っているのが聞こえる。
いや、幼馴染じゃねえし! 今日初めて会ったばかりだし!
「……はぁ。初日から最悪のエンカウントだぜ」
俺が額をさすりながらため息をつくと、結愛は拾い上げた消しゴムを机に置きながら、ニシシと笑った。
「まあまあ、そう怒んなって。これも何かの縁だろ? 私は星野結愛。よろしくな、石頭くん!」
「相葉悠真だ。あと石頭って呼ぶな」
呆れながら答えたその時、俺の視線は彼女のスクールバッグに付けられた一つのアクリルキーホルダーに釘付けになった。
それは、知る人ぞ知る超絶難易度の死にゲーアクションRPG『フロム・ザ・ダークネス』のボスキャラ「腐竜・ガルド」のキーホルダーだった。
「おい……お前、それ……」
「ん? ああ、これ? 可愛いだろ? 昨日の夜、こいつに三十回は殺されてさー。もうコントローラー窓から投げ捨てようかと思ったぜ」
「マジかよ……。俺、昨日の夜、こいつの第二形態のブレスで五十回は焼かれたんだが」
「えっ!? お前も『フロム・ザ・ダークネス』やってんの!? しかもガルドまで進んでるって、めちゃくちゃやり込んでんじゃん!」
「当たり前だろ! 発売日から徹夜でプレイしてるわ!」
「同志よ……!!」
次の瞬間、俺たちは机越しにガッチリと熱い握手を交わしていた。
ゲームのプレイスタイル、好きな漫画のジャンル、さらには深夜アニメの視聴ラインナップまで。俺と結愛の趣味嗜好は、恐ろしいほどに完全に一致していたのだ。
気がつけば、初対面の遠慮など宇宙の彼方に消え去り、俺たちは昼休みも放課後も、ひたすらオタク特有の早口で語り合っていた。
「お前、最高だな! 今日から私たちは心の友(ブラザー)だ!」
「おう! 最高のダチだな!」
こうして、周囲からは「あいつら、入学初日で完全に出来上がってる」と生温かい目で見られながらも、俺たちの『最高の友情関係』は、騒がしく幕を開けたのだった。

高校二年の初夏。
俺と結愛の「最高のダチ」関係は、クラス替えを経てもなお、揺らぐことなく続いていた。むしろ、一緒にいる時間が長くなるにつれて、俺たちの会話のテンポはプロの漫才師並みに洗練されてきていた。
放課後のファミリーレストラン『ガストロ』。ここは俺たちにとっての第二の部室であり、オアシスだった。
「見よ、悠真! 究極のドリンク『カオス・エメラルド』の完成だ!」
ドリンクバーから戻ってきた結愛が、ドヤ顔でグラスを掲げた。
そのグラスの中には、メロンソーダをベースに、コーラ、カルピス、そして謎のオレンジ色の液体が層をなして混ざり合い、まるで毒沼のような禍々しいグラデーションを形成している。
「色ヤバすぎだろ! 完全に魔女が鍋で煮込んでるやつじゃねえか! 飲んだらHPが毎秒削られるエフェクト出るわ!」
「失礼な! これは多様性を重んじた現代社会の縮図を表現した、奇跡のブレンドだぞ。一口飲めば、甘みと酸味と炭酸が脳天を突き抜けるはずだ!」
「それただ味が喧嘩して爆発してるだけだろ! いいから早く普通のお茶汲んでこい!」
「ちっ、素人にはこの芸術が理解できないか」
結愛は不満げに唇を尖らせながらも、その毒沼をストローで一気に吸い込み、「んぐっ……!? 甘っ……いや、苦っ……!?」と一人で悶絶している。
「だから言っただろ、自業自得だバカ」
俺はため息をつきながら、自分の前に置かれたハンバーグ定食に手を出した。
俺たちがそんなやり取りをしていると、斜め向かいの席に座っていたクラスメイトの鈴木と佐藤が、呆れたような顔でこちらを見てきた。
「お前らさぁ……相変わらず、息をするように漫才してるよな」
鈴木がポテトをかじりながら言う。
「漫才じゃねえよ。こいつがボケの過積載で突っ込んでくるから、俺が交通整理してやってるだけだ」
「誰が過積載だ! 私は常にスタイリッシュでスマートなユーモアを提供しているだけだぞ!」
「沼の水飲んで悶絶してる奴のどこがスマートなんだよ」
「ほら、またやってる」佐藤が苦笑いしながら首を振る。「お前らさ、そんなに気が合うなら、もう付き合っちゃえばいいじゃん。見てるこっちがもどかしいわ」
その言葉を聞いた瞬間、俺と結愛はピタリと動きを止め、顔を見合わせた。そして、息を吸い込み、一寸の狂いもないタイミングで叫んだ。
「「は? こいつとはただのダチ(親友)だし!!」」
ファミレスの店内に、俺たちの見事なハモリが響き渡る。
「いやいや、ダチって……。お前ら、休日も一緒にゲームしたり、映画見に行ったりしてるんだろ? それ世間一般では『デート』って言うんだぞ」
「鈴木くん、君は分かってないな」結愛がストローを指差し棒のように振る。「男同士の熱い友情に、性別なんて些細な問題は関係ないのだよ。私たちは魂のレベルで惹かれ合うブラザーなんだ!」
「そうそう。結愛なんて中身はほぼその辺のおっさんだからな。色気もクソもない。俺から見れば、髭の生えたおじさんと一緒にいるのと変わらん」
「誰が髭の生えたおっさんだ! 乙女に向かってなんてこと言うんだ、この唐揚げ泥棒!」
結愛はそう叫ぶなり、俺の皿に乗っていた最後の唐揚げをフォークで素早く強奪し、パクリと口に放り込んだ。
「ああっ! 俺が最後まで楽しみに取っておいた唐揚げが! 乙女は人の唐揚げを強奪しねえよ!」
「早い者勝ちだ! 弱肉強食の世界を舐めるな!」
ギャーギャーと騒ぎ立てる俺たちを見て、鈴木と佐藤は「はいはい、ごちそうさま」「こいつらに恋愛感情を説くのは時間の無駄だな」と早々に匙を投げた。
恋愛感情? そんなもの、俺と結愛の間にあるわけがない。
こいつは一緒にいて最高に楽しくて、最高に気楽で、なんでも言い合える『親友』だ。
もし仮にこいつと付き合うなんてことになったら、この心地よい関係が壊れてしまうかもしれない。そんなリスクを冒すくらいなら、一生このままアホなことで笑い合っていたい。
俺は心からそう信じていたし、結愛も同じ気持ちだと疑っていなかった。
「おい結愛、唐揚げの恨みは深いぞ。今日の夜、スマブラで一〇〇回戦の刑だからな」
「望むところだ! 返り討ちにしてやる!」
俺たちの関係は、いつまでもこのまま、変わらずに続いていく。そう信じて疑わなかった日常の一コマだった。
季節は巡り、梅雨の真っ只中。
その日は朝からどんよりとした曇り空だったが、放課後になった途端、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨に見舞われた。
傘を持っていなかった俺と結愛は、昇降口で立ち往生していた。
「うわー、マジかよ。これ絶対止まないパターンの雨じゃん」
結愛が空を見上げて恨めしそうに呟く。彼女の家はここから電車と徒歩で一時間近くかかる。一方、俺の家は学校から徒歩十分の距離だ。
しかも、今週は両親が親戚の結婚式を兼ねた旅行に出かけており、家には俺一人しかいない。
「しゃーない。結愛、今日はうちで雨宿りしていくか? 親もいねえし」
「マジ!? 助かる! よっしゃ、悠真の家でスマブラ合宿だー!」
結愛は躊躇する素振りすら見せず、両手を挙げて喜んだ。
男女が親のいない家で二人きり。普通の高校生ならドギマギするシチュエーションかもしれないが、俺たちの間にはそんなピンク色の空気は微塵も存在しない。
「じゃあ、走るぞ! 俺の制服を傘代わりにしろ!」
「おおっ、イケメンムーブ! でも私も走るから意味ないぞ!」
結局、二人でずぶ濡れになりながらアホみたいに笑い合い、俺の家へと転がり込んだ。
「あー、冷たかった! 悠真、バスタオル貸して!」
「ほらよ。あと、風邪ひくから俺のジャージ着とけ」
俺は適当なTシャツと高校の指定ジャージを彼女に渡し、先に風呂に入らせた。
リビングで雨に濡れた鞄を拭きながら待つこと二十分。
「ぷはー! 生き返ったー!」
脱衣所のドアが開き、風呂上がりの結愛がリビングに姿を現した。
その瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
結愛が着ているのは、俺のサイズのブカブカのTシャツとジャージだ。肩のラインがずり落ち、華奢な鎖骨が覗いている。いつもは元気いっぱいに跳ねているショートボブの髪は、今はしっとりと濡れて頬に張り付き、ほんのりと上気した肌が妙に生々しい。
そして何より、リビングにふわりと漂ってきた、俺と同じシャンプーの甘い香り。
ドクン、と。
俺の心臓が、柄にもなく大きな音を立てた。
「……おい」
「ん? なんだよ。私の美しさに惚れたか?」
冗談めかして笑う結愛から目を逸らし、俺は必死に平常心を装った。
「バカ言え。お前なぁ、一応女なんだから、男の家で少しは警戒しろよ。そんな無防備な格好でウロウロすんな」
「はあ? なに言ってんの。ダチの家で警戒してどうするんだよ。相手が悠真なんだから、間違っても襲われる心配なんてゼロだし!」
ケラケラと笑いながら、結愛は冷蔵庫から勝手に麦茶を取り出して飲んでいる。
「お前な……男ってのは狼なんだぞ」
「悠真は狼っていうか、よく訓練されたポメラニアンって感じだろ。ほら、そんなことより早くコントローラー握れ! 今日こそお前をボコボコにして、私の最強伝説の幕開けにしてやる!」
「……言ってろ。俺のメインキャラの即死コンボで泣かしてやるよ」
変に意識してしまった自分が馬鹿らしくなり、俺は頭を振って雑念を追い払った。
そこからは、いつものように男友達と遊ぶノリで、ゲームの画面に向かって叫び続ける時間が続いた。
「そこだ! くらえ、メテオスマッシュ!」
「甘い! 回避からのカウンターじゃあああ!」
白熱したバトルを繰り広げること数時間。外の雨音もいつしか小さくなっていた。
「……よし、俺の勝ち……って、おい?」
隣から反応がないことに気づき、視線を向ける。
結愛はコントローラーを握りしめたまま、カーペットの上に倒れ込んでスヤスヤと寝息を立てていた。
「……子供かよ」
呆れながらも、風邪をひかれては困るので、俺はソファにあったブランケットを彼女の肩にかけた。
その時、至近距離で見る彼女の寝顔が、いつもよりずっと大人びて、静かで――そして、どうしようもなく可愛く見えてしまった。
「……こういう時だけ、女子っぽい顔しやがって」
俺は誰に聞かれるわけでもなく、小さな声で悪態をついた。
親友に対して抱いてはいけない感情の種が、俺の胸の奥で密かに芽生え始めた瞬間だった。
秋の気配が色濃くなってきた九月。体育祭の季節。
全校生徒がグラウンドで汗を流す中、俺の視線は無意識のうちに、一点に引き寄せられていた。
グラウンドの隅のテント下。
結愛が、サッカー部のエースストライカーであり、学園でも一、二を争うイケメンとして名高い三年生の如月(きさらぎ)先輩と、楽しそうに談笑しているのだ。
「星野さんって、本当に面白いね。話してて全然飽きないよ」
「マジですか! 先輩もあのゲームやってるなんて奇跡ですよ! 今度ぜひ一緒にマルチプレイしましょうよ!」
「本当? 嬉しいな。じゃあ、今度の日曜、ゲームの新作買いに行くついでに、どこか遊びに行かない?」
……は? 遊びに行く? それってデートの誘いじゃねえか。
俺は遠巻きにその光景を見つめながら、手に持っていたスポーツドリンクのペットボトルをギリギリと握りしめていた。
胸の奥で、ドス黒いモヤモヤとした感情が渦巻いている。
「なんだあいつ……」
俺は心の中で毒づいた。
如月先輩は確かにイケメンで爽やかだ。だが、結愛のボケに対してただニコニコと笑って頷いているだけで、全くツッコミを入れていない!
結愛のトークの面白さは、鋭いツッコミがあってこそ輝くものだ。あんな風に全てを肯定されてしまっては、彼女の良さが死んでしまう。そうだ、俺は親友として、結愛のポテンシャルを引き出せないあの先輩に腹を立てているだけだ。
決して、他の男に結愛を取られるのが嫌だという『嫉妬』なんかじゃない。俺は必死に自分にそう言い聞かせていた。
その日の放課後。
二人でいつものように帰り道を歩きながら、俺は我慢しきれずに口を開いた。
「おい結愛。お前、如月先輩と遊びに行くのか?」
「ん? ああ、日曜の話? 行く行く! 先輩、めっちゃ優しくてさー。ゲームの話も合うし、最高だよ」
無邪気に笑う結愛の横顔を見て、俺のイライラは頂点に達した。
「……お前さ、自分がどう見られてるか自覚あんのか? あんなの、どう見てもお前を狙ってるだろ」
「は? 狙うって何を? 私、先輩に金借りた覚えなんてないぞ?」
「そういう意味じゃねえよ! 恋愛対象として見られてるって言ってんだよ!」
俺が声を荒らげると、結愛はキョトンとした顔で俺を見た後、腹を抱えて爆笑し始めた。
「あはははは! 悠真、お前バカじゃないの!? 私が恋愛対象!? あのイケメン先輩が!? ないない、絶対にないって! 先輩はただ、気の合う後輩として誘ってくれただけだっての」
「……お前、本当に自分のこと分かってねえな」
「なんだよ、不満そうな顔して。……あ! もしかして悠真、私と遊ぶ時間が減るからヤキモチ焼いてるのか~?」
結愛がニヤニヤしながら、肘で俺の脇腹を小突いてきた。
「はあ!? なんで俺がダチにヤキモチなんか焼かなきゃなんねーんだよ! 自意識過剰も大概にしろ!」
「だよねー! あはは! 悠真が私にヤキモチなんて、天変地異が起きてもあり得ないわな!」
ケラケラと笑い飛ばす結愛。
その鈍感さに、昔なら「だよな」と笑って返せたはずなのに。今の俺は、その言葉が胸にチクリと刺さるのを感じていた。
「……あーあ。お前が如月先輩と遊んでる間、俺は一人で寂しくゲームでもしてっかな」
思わず口から出たのは、自分でも驚くほど拗ねたような言葉だった。
すると、前を歩いていた結愛がピタリと足を止め、振り返った。
「……悠真が寂しいなら、先輩との約束、断ろうか?」
「え……」
いつもはおちゃらけている結愛の瞳が、少しだけ真剣な色を帯びて俺を真っ直ぐに見つめていた。
「だって、私は先輩より、悠真と一緒にいる時間の方が何倍も楽しいし。……お前が嫌なら、行かない」
その真っ直ぐな言葉に、俺の胸のモヤモヤは一瞬にして吹き飛び、代わりに心臓が早鐘のように鳴り始めた。
「……べ、別に嫌とは言ってねえだろ。ダチの交友関係に口出しするほど、俺は器が小さくねえよ」
「ふーん? そっか。じゃあ、日曜は遊んでくるわ。お土産に限定のアイテムコードもらってきてやるから、楽しみに待ってろ!」
「……おう」
再び歩き出した彼女の背中を見つめながら、俺は深くため息をついた。
親友の隣は、俺の指定席だと思っていた。
だが、その席を他の誰かに奪われるかもしれないという恐怖が、俺に自分の本当の感情を突きつけていた。
俺はもう、ただの『親友』という立ち位置では満足できなくなっているのかもしれない。

冬の寒さが本格的になってきた一月。
俺は、人生で数えるほどしか経験のない「知恵熱以外の発熱」に見舞われ、学校を休んでベッドで伏せっていた。
体温計の表示は三八・五度。喉は痛み、関節はギシギシと軋む。
両親は共働きで帰りが遅く、静まり返った家の中で一人天井を見つめていると、どうしようもない孤独感が押し寄せてくる。
「……暇だな」
スマホを見る気力もなく、ただ目を閉じていると、突然インターホンがやかましく鳴り響いた。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン! と、親の仇のように連打される音。
この乱暴な鳴らし方をする人間は、世界に一人しかいない。
俺は重い体を叩き起こし、フラフラと玄関に向かってドアを開けた。
「よう、病人! 最高のダチが手厚い看病にやってきてやったぞ!」
そこには、マフラーでぐるぐる巻きになった結愛が、レジ袋を両手に下げて立っていた。
「お前……声がデカい。頭に響く……」
「おっと、すまんすまん。ほら、差し入れ買ってきたぞ。スポーツドリンクに、ゼリーに、プリンに……あと、長ネギだ!」
「なんで長ネギ……!?」
「バカだなあ、風邪っぴきには首にネギを巻くのが古来からの最強の治療法だろ!」
「昭和の民間療法かよ! 令和の時代に誰がやるんだよ! っていうか、お前絶対面白半分で買ってきただろ!」
喉が痛いのに、全力でツッコミを入れてしまった。しかし、いつものように言い返してくるかと思いきや、結愛は少しだけ心配そうな顔で俺の顔を覗き込んだ。
「……ホントに辛そうだな、悠真。顔、真っ赤だぞ」
「そりゃ熱あるからな……」
「よし、とりあえずベッドに戻れ! 私が消化に良い特製お粥を作ってやるから!」
結愛は俺を無理やりベッドに押し込むと、腕まくりをしてキッチンへと向かった。
しばらくすると、キッチンから「ガシャン!」「あちっ!」「なんだこの調味料!?」という、およそ料理中とは思えない破壊音が聞こえてきた。
俺の家のキッチンが物理的に崩壊しないかヒヤヒヤしながら待つこと三十分。
「お待たせ! 結愛シェフ特製、卵玉ねぎネギまみれ雑炊だ!」
運ばれてきたのは、もはやお粥の原型を留めていない、茶色いドロドロの物体だった。
「……これ、食べたら俺の寿命縮まない?」
「失礼な! 見た目はアレだけど、味は保証する! ほら、口開けろ。あーん」
「は!? いや、自分で食えるから!」
「いいから! 弱ってる時は素直にダチの優しさに甘えとけ! ほら、あーん!!」
半ば強制的にスプーンを口に突っ込まれる。
……味は、見た目に反して意外と普通に美味しかった。少し味が濃いが、熱で鈍った味覚にはちょうどいい。
「……美味い」
「だろ!? 私の女子力、舐めんなよ!」
ドヤ顔で笑う結愛。その笑顔を見ていると、不思議と体のダルさが少し和らいだような気がした。
食べ終わった後、結愛はベッドの横に椅子を引き寄せ、じっと俺の顔を見つめてきた。
「……なんだよ」
「いや。……悠真が元気ないと、私、つまんないなーって思って」
ぽつりとこぼしたその言葉には、いつものおちゃらけた響きは一切なく、ただ純粋な寂しさが滲んでいた。
「……すぐ治すよ」
「うん」
結愛はそう言うと、ふいに立ち上がり、俺の顔にスッと顔を近づけてきた。
「なっ……!?」
驚く間もなく、彼女の冷たいおでこが、俺の熱いおでこにピタリとくっついた。
至近距離で交差する視線。彼女の長いまつ毛が震え、シャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
心臓が、痛いほどに激しく跳ね回った。
「……うん、まだ熱高いな。今日はもう寝とけ」
結愛は何事もなかったかのように顔を離し、布団をかけ直してくれた。
「お前……そういうの、誰にでもやってんのかよ」
「はあ? やるわけないだろ。悠真だから特別にやってやったんだよ。ダチの特権だな!」
ニコッと笑う彼女を見て、俺はついに白旗を上げた。
ああ、もうダメだ。
こいつの無防備な優しさも、俺にだけ見せる特別扱いも、全部が愛おしくてたまらない。
このバグった感情の正体は、もう『友情』なんて便利な言葉でごまかせるレベルを超えている。
俺は、星野結愛という一人の女の子に、完全に恋をしているのだ。

高校二年の秋、文化祭。
お祭り騒ぎの二日間が終わり、校庭では後夜祭のキャンプファイヤーが赤々と燃え上がっていた。
我が校には「後夜祭の炎を一緒に見た男女は永遠に結ばれる」という、いかにもなジンクスが存在する。そのため、校庭のあちこちでは、カップルやこれからカップルになろうとする男女が、良い雰囲気で炎を囲んでいた。
そんなピンク色の空間から逃げ出すように、俺と結愛は校舎の屋上へと抜け出していた。
十一月の夜風は冷たく、火照った体を冷ますにはちょうどいい。
屋上のフェンスに寄りかかり、眼下で揺れる炎を見下ろしながら、俺たちはしばらく無言で夜空を見上げていた。
「下、盛り上がってんなー」
先に口を開いたのは結愛だった。
「ああ。リア充どもがこぞって愛を語り合ってるぜ。俺たちには無縁の世界だな」
俺がいつものように軽口を叩くと、結愛は「……そうだな」と、短く呟いた。
いつもなら「私たちも負けずにダチへの愛を叫ぶか!」とふざけてくるはずなのに、今日の結愛はどこか様子がおかしかった。
フェンスを握る彼女の手が、微かに震えているように見える。
「……ねえ、悠真」
静かな、鈴を転がすような声。
「私さ、最近なんかおかしいんだ」
「おかしいって、頭が? それは出会った時からだろ」
「茶化すなよ……。真面目な話」
結愛が顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、迷いと、戸惑いと、そして少しの恐怖が入り混じっていた。
「私、悠真が他の女子と楽しそうに話してたり、私以外の誰かに優しくしてたりすると……胸の辺りがモヤモヤして、イライラするんだ。ゲームで理不尽な負け方をした時みたいに、すごくムカつく」
「結愛……」
「私たち、最高のダチだよね。お互いのこと何でも分かってて、一緒にいるのが一番楽しくて。……なのに、こんな感情持つなんて、変だよね。私、悠真の親友として失格かもしれない」
彼女の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、彼女自身も気づかないうちに育ててしまった、俺に対する好意の証だった。
俺は、フェンスから背中を離し、結愛の正面に立った。
「……それ、俺もだ」
「え……?」
「俺も、お前が他の男と笑ってるのを見ると、腹が立って仕方がない。お前の隣は俺の場所だって、独占したくなる」
「悠真……」
「ダチだからじゃない。俺が、お前を一人の女の子として好きになっちまったからだ」
ごくりと、結愛が息を呑む音が聞こえた。
「俺たち、今日で『ダチ』の契約、一旦解除しねえか」
「えっ……それって、絶交ってこと……?」
涙目になりながら慌てる結愛に、俺は苦笑しながら手を伸ばし、彼女の頭をポンと撫でた。
「馬鹿。そうじゃねえよ」
俺は一歩踏み込み、結愛の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「これからは、『彼氏』として、俺の隣にいてくれ。お前のボケには一生俺がツッコミを入れてやるし、ゲームも死ぬまで一緒にやってやる。だから、俺と付き合ってください」
夜風の音さえ消え去ったような静寂。
結愛は目を丸くして固まり、やがて顔を耳まで真っ赤に染め上げた。
「……っ! ……ば、バカ悠真! 急にそんな、カッコいいこと言うなよ……!」
「カッコいいって認めてんじゃん」
「うるさいうるさい! ……でも、」
結愛は俯き、モジモジと指を絡ませながら、蚊の鳴くような声で言った。
「……ふ、ふん。まあ、悠真のツッコミがないと、私のボケも輝かないからな。……特別に、彼氏に昇格させてやってもいいぞ」
「そこは素直に『はい』って喜べよ」
「うるさい! 私なりの照れ隠しだ!」
顔を真っ赤にして怒る結愛がたまらなく可愛くて、俺は思わず彼女を強く抱きしめた。
「ちょっ、悠真!? 苦しい!」
「うるせえ、一生離さねえ」
最高のダチは、こうして世界で一番愛おしい恋人になった。
眼下で燃えるキャンプファイヤーの炎よりも熱い感情が、俺たちの間を確かに繋いでいた。
文化祭から一夜明けた、月曜日の朝。
俺たちの関係は劇的な変化を遂げた……はずだった。
「よう、彼女! 今日の昼休みの購買、焼きそばパン争奪戦は絶対に負けねえからな!」
「望むところだ彼氏! 私の購買ダッシュ力を見くびるなよ! 今日こそ私がツナマヨを勝ち取る!」
登校して早々、教室の入り口で繰り広げられる俺たちの熱いバトル宣言。
それを見ていたクラスメイトの鈴木が、呆れ果てた顔でため息をついた。
「お前らさぁ……週末に付き合い始めたって噂聞いたけど、マジで何も変わってねえな」
「「は? 変わったし!」」
俺たちは一寸の狂いもないタイミングで振り返り、声を揃えて反論した。
「いや、どこがだよ。相変わらず漫才みたいな会話してるし、ムードの欠片もねえじゃん。本当に付き合ってんのか?」
「鈴木くん、君は本当に何も分かってないな」結愛が胸を張り、ドヤ顔で言い放つ。「私たちは、ただの恋人同士という枠には収まりきらないのだよ。親友であり、相棒であり、そして恋人! これが私たちが出した『最強の形』なのだ!」
「そういうことだ。お前みたいな凡人には一生理解できない、高次元の愛の形だぜ」
「……はいはい。お前らがそれで幸せなら、勝手にやってろ」
鈴木は肩をすくめ、自分の席へと戻っていった。
確かに、俺たちの会話のテンポも、ふざけ合うノリも、ゲームで熱くなるのも、昨日までと何も変わっていない。
けれど、決定的に変わったことが一つだけある。
「ほら結愛、行くぞ」
「おう!」
俺が自然に手を差し出すと、結愛は少しだけ照れくさそうに笑いながら、その手をしっかりと握り返してきた。
俺の大きな手の中にすっぽりと収まる、彼女の少し小さな手。
周囲のクラスメイトたちが「おっ」「手繋いでるじゃん」と冷やかす声を背中に受けながら、俺たちは堂々と廊下を歩き出した。
「なあ悠真」
「ん?」
「なんか、手繋ぐのって……いいな。安心するっていうか、嬉しい」
上目遣いでそう言ってくる結愛の顔は、いつもの少年のような元気さではなく、年相応の女の子の可愛らしさに満ちていた。
俺は心臓が爆発しそうになるのを必死に堪えながら、ニヤリと笑い返した。
「だろ? 俺の手に惚れ直したか?」
「調子に乗るな! 私は悠真の顔面と性格はアレでも、ツッコミのセンスと手だけは評価してるんだ!」
「顔面と性格も評価しろよ!」
「あはははは!」
相変わらずのボケとツッコミの応酬。
でも、繋いだ手から伝わってくる体温は、俺たちがもうただの『ダチ』ではないことを、何よりも雄弁に物語っていた。
これから先、俺たちはきっと数え切れないほどの喧嘩をし、アホみたいなことで笑い合い、ゲームの勝敗で本気で悔しがるのだろう。
だけど、もう迷うことはない。
俺の隣には結愛がいて、結愛の隣には俺がいる。
最高の親友で、最強の相棒で、そして世界で一番大好きな恋人。
俺たちの騒がしくて愛おしい日常は、これからもずっと、このテンポで続いていくのだ。
「よし、悠真! 今日の放課後はゲーセン寄って、あの新作の格ゲーで対決だ!」
「受けて立つぜ。俺のコンボでボコボコにして、俺のカッコよさを思い知らせてやる」
「負けた方が今日のジュース奢りな!」
「上等だ!」
俺たちは顔を見合わせ、最高の笑顔で笑い合った。
これが、俺たちの導き出した、最高にハッピーなエンディングの形だ。
※システム上の限界まで詳細に描写し、一気に執筆いたしました。