春。桜の花びらが舞い散る高校の教室は、新しい環境への期待と不安が入り混じった特有の喧騒に包まれていた。
俺、相馬悠真(そうまゆうま)は、窓際の後ろから二番目という、いわゆる「主人公席」に座り、ぼんやりと外を眺めていた。これから始まる高校生活、波風立てずに平和に過ごしたい。そんなありきたりなことを考えていた俺の視界に、ポロリと白い塊が転がってきた。
消しゴムだ。
視線を向けると、隣の席の女子が「ああっ」と小さな声を漏らし、身を乗り出そうとしていた。肩にかかるくらいの明るい茶髪に、少し大きめのブレザー。どこか小動物を思わせる愛嬌のある顔立ちの彼女は、俺と目が合うと、申し訳なさそうにへへっと笑った。
「ごめん、落としちゃった。拾ってくれる?」
「ん、ほいよ」
俺は足元に落ちていた消しゴムを拾い上げ、彼女の机にコトンと置いた。ベタすぎる。ラブコメならここからフラグが立つところだが、現実はそんなに甘くない。ただの親切なクラスメイトAとしての責務を果たしただけだ。
「ありがとう! 助かったー。私、星野結愛(ほしのゆあ)! よろしくね!」
「あ、ああ。俺は相馬悠真。よろしく」
結愛は太陽のように眩しい笑顔を向けた後、ふと俺のスクールバッグに視線を釘付けにした。
「……ねえ、相馬くん。そのカバンについてるキーホルダーって……もしかして『ギャラクシー・ファイターズ』の隠しキャラの『ポヨン』?」
「……は?」
俺は思わず間抜けな声を出した。俺のカバンについているのは、十数年前に発売された超マイナーなレトロ格闘ゲームの、しかも隠しコマンドを入力しないと出現しないマスコットキャラのキーホルダーだ。同年代でこれを知っている奴なんて、今まで一人もいなかった。
「なんでお前、それ知ってんの?」
「なんでって、私あのアホみたいにシビアなコマンド入力、目隠しでもできるよ!? 上上下下左右左右……からの同時押しでしょ!? 私、兄貴の影響でレトロゲー大好きなんだよね!」
「マジかよ! あのクソゲーの愛好家がこんなところにいるなんて……! ちなみに持ちキャラは?」
「当然、パワー特化の『マッスル・ジョニー』一択でしょ。ガードの上から削り倒すのがロマン!」
「うわ、ゴリゴリの脳筋プレイじゃねえか。俺はスピード重視の『ニンジャ・シャドウ』だから、お前みたいなパワーバカはカモだわ」
「なんだとぉ!? シャドウの小足連打とか、卑怯者の戦術でしょ! マジで一回勝負したいわ!」
「上等だよ。放課後、駅前のゲーセンで最新の格ゲーで勝負だ。負けた方がジュース奢りな」
「乗った! 絶対に泣かしてやるんだから!」
出会って五分。俺たちは完全に意気投合していた。
放課後のチャイムが鳴るや否や、俺と結愛は示し合わせたように席を立ち、駅前のゲームセンターへと直行した。薄暗い店内、電子音が鳴り響く中、俺たちは対戦台に並んで座り、無言でスティックを握った。
「ラウンド1、ファイッ!」
画面のアナウンスと共に、激しいボタンの打撃音が響き渡る。
「そこだ! もらったぁ!」
「甘い! 昇竜からのキャンセルコンボ!」
「うわあああ! なんでそこでガード固めてんのよ!」
「お前の動きなんて単調すぎて手裏剣より見切りやすいんだよ!」
結果は、俺の3戦3勝。結愛は「ぐぬぬ……」と悔しそうに唸りながら、自販機で買ってきたコーラを俺に押し付けた。
「ほら、約束のジュース! 次は絶対に負けないから!」
「ごちそうさん。まあ、初心者にしてはいい動きだったぜ」
「初心者じゃないし! ……でも、すっごく楽しかった! 相馬くん、見た目によらず容赦ないね」
「勝負の世界に手加減は無用だからな」
夕焼けに染まる帰り道。オレンジ色の光が、結愛の横顔を柔らかく照らしていた。彼女はコーラの缶をカランと鳴らしながら、俺に向かってニカッと笑った。
「ねえ、相馬くん。今日から私たちは『戦友(マブ)』ね! 最高のダチの誕生記念日だ!」
「なんだよ戦友って。まあ、気が合うのは認めるけどな。よろしく頼むわ、星野」
「結愛でいいよ! 私は悠真って呼ぶから!」
「距離感バグってんな、お前……。まあいいや、よろしくな、結愛」
こうして、高校生活初日にして、俺に「最高の親友」と呼べる存在ができた。異性とか同性とか、そんな枠組みを超えた、魂のレベルで波長が合う相手。
まさかこの出会いが、後々俺の日常をこれほどまでに引っ掻き回すことになるとは、この時の俺は知る由もなかった。
高校2年の秋。俺と結愛の「親友関係」は、もはや周囲から見ても完全に定着していた。
というよりも、定着しすぎておかしなことになっていた。
「悠真ー! ポテチのコンソメ味、どこに隠したー!?」
休日の午後。俺の部屋のドアが勢いよく開き、結愛が我が物顔で乱入してきた。彼女は部屋着のようなゆったりとしたパーカーにショートパンツという、女子力という概念をどこかに置き忘れたような格好で、ベッドの上にダイブした。
「お前なぁ……人の部屋をコンビニの棚みたいに漁るな。ベッドの下の段ボールに入ってる」
「あった! さすが悠真、私の好みを完全に把握してる! 最高の親友!」
「勝手に食うなよ、それ俺の夜食だからな」
「半分こすればいいでしょー。ほら、早くゲーム起動して! 今日こそあのゾンビゲーのボス倒すんだから!」
結愛はバリバリとポテチを頬張りながら、コントローラーを握って俺の隣に座り込んだ。ショートパンツから伸びる白い足が俺の腕に触れるが、お互いに気にする素振りはない。だって俺たちは「ダチ」だからだ。男友達が部屋に遊びに来てゲームをしているのと同じ感覚。そこに性別というフィルターは存在しない。
「お前、突っ込みすぎだって! 後ろからゾンビ来てる!」
「うわあああ! 悠真助けて! 私の弾がもうない!」
「だから無駄撃ちすんなって言ったろ! ほら、こっち来い、カバーしてやる!」
「一生ついていきますアニキ!!」
「誰がアニキだ!」
画面越しのゾンビの群れに悪戦苦闘しながら、俺たちは休日の大半をこうして消費していく。これが俺たちの日常だった。
学校でも、俺たちの関係は変わらない。
昼休み。俺が机で弁当を広げていると、当然のように結愛が自分の弁当を持って向かいの席に座ってくる。
「あ! 悠真の弁当、今日は唐揚げじゃん! いただき!」
「あ、こら! お前、人のメインディッシュを躊躇なく奪うな!」
「私の卵焼きとトレードしてあげるから感謝しなさい!」
「等価交換の法則を無視すんな!」
ギャーギャーと言い合いながら弁当を食べていると、クラスメイトで俺の悪友でもある健太が、呆れたような顔で近づいてきた。
「お前らさぁ……ホント、なんで付き合ってないの?」
「「は?」」
俺と結愛は、見事にハモった声で健太を睨みつけた。
健太はため息をつきながら、肩をすくめる。
「いや、どう見てもバカップルの昼休みだろそれ。お前ら、休みの日も一緒にいるらしいし、もうさっさと籍入れろよ」
「バカ言うな。俺と結愛はそういう次元の低い関係じゃないから」
「そうそう! 健太はわかってないなー。私と悠真は、前世からの業(カルマ)を背負った魂のブラザーだから! 恋愛なんていうチャラいもんじゃないの!」
結愛が箸で唐揚げを指差しながら熱弁を振るう。
「ブラザーってお前……一応、女だろ」
「細かいことは気にしない! 私にとって悠真は、一緒にいて一番楽で、一番楽しくて、一番気を使わない相手! つまり『親友の究極系』なんだよ!」
「だそうだ。わかったか、健太」
「……お前ら、絶対いつかその言葉を後悔する日が来るからな。俺は予言しとくぞ」
健太は呆れ果てた顔で自分の席に戻っていった。
「なんだよあいつ、変なこと言いやがって。なあ、結愛」
「ねー。私たちみたいな完璧な友情を理解できないなんて、可哀想な奴め。……あ、悠真のウインナーももらうね」
「おい! それ最後の一口に取っておいたやつ!」
俺たちは再び弁当のおかず争奪戦に戻った。
周囲から「付き合ってる」と言われるのは、これが初めてではない。むしろ高校に入ってから数え切れないほど言われてきた。でも、俺たちの間にそんな甘っちょろい感情はない。一緒にいて腹を抱えて笑える。最高のゲーム仲間であり、漫才の相方。
俺にとって結愛は、唯一無二の「親友」なのだ。恋愛感情なんてものが入り込む隙間は、1ミリだってない。……そう、この時の俺は、本気でそう信じて疑わなかった。
夏休み。うだるような暑さが続く8月の中旬。
俺の両親は「夫婦水入らずで温泉に行ってくる」と言い残し、二泊三日の旅行へと出かけていった。つまり、この家には俺一人。夢のフリータイム、ゲーム三昧の黄金期間が到来したわけだ。
よし、今日は朝まであのRPGをやり込むぞ。そう意気込んでコントローラーを握った瞬間、玄関のチャイムがけたたましく鳴り響いた。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
「……誰だよ、こんなクソ暑い昼下がりに」
渋々玄関のドアを開けると、そこには大きなボストンバッグを抱え、汗だくになった結愛が立っていた。
「悠真ぁ……助けて……」
「は!? お前、なんだその大荷物は。家出か?」
「違うよぉ……家のエアコンが、急にブッ壊れたの。修理業者が来るの、三日後だって……。このままじゃ私、干からびてスルメになっちゃう……」
「だからって、なんで俺の家に来るんだよ」
「だって、悠真んち、親御さん旅行でいないんでしょ? 避難させてよぉ! 私の命がかかってるの!」
「お前なぁ、一応女子高生が、親がいない男の家に泊まり込むって、どういう神経してんだよ。お前の親は止めるだろ普通」
「『あら、悠真くんちなら安心ねー。お邪魔しちゃダメよー』って、お小遣いまでくれたよ」
「俺の信用度、親戚のオッサンレベルじゃねえか……」
呆れつつも、この猛暑の中で結愛を追い返すわけにもいかず、俺はため息をついて彼女を家に入れた。
「というわけで、今日から三日間よろしく! 合宿だね、合宿!」
「はあ……。まあいいけど、自分のことは自分でやれよ。あと、俺のゲームのセーブデータは絶対消すなよ」
「わかってるって! あー、涼しい! 天国!」
こうして、俺と結愛の奇妙な「同居生活」が始まった。
昼間は二人で並んでゲームをし、夕方になると近くのコンビニに弁当やアイスを買い出しに行く。まるで、夏休みを謳歌する小学生の男子二人のような生活だった。
しかし、その日の夜。事態は俺の想定を少しだけ超えることになる。
「悠真ー、お風呂借りたよー! 生き返ったー!」
「おー、勝手に冷蔵庫の麦茶でも飲んで……」
リビングのソファでスマホをいじっていた俺が顔を上げた瞬間、思考が数秒フリーズした。
結愛は、俺が貸したダボダボのTシャツ(俺のサイズだからワンピースみたいになっている)を着て、濡れた髪をタオルで無造作に拭きながら現れたのだ。首筋から落ちる水滴。Tシャツの襟元から覗く、白い肌と華奢な鎖骨。風呂上がりの熱気のせいか、少し上気した頬。
「ぷはー! お風呂上がりの麦茶、最高! ……ん? どしたの悠真、固まっちゃって」
結愛は麦茶のグラスを持ったまま、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
石鹸の甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
「……っ! お前、なんだその格好は!」
「え? 悠真が貸してくれたTシャツだけど? なに、似合わない?」
「そういう問題じゃねえ! 女子なんだから、もっとこう……気を使えというか、無防備すぎるだろ!」
「なにそれー。悠真相手に気なんか使うわけないじゃん。私たち、親友でしょ? 家族みたいなもんじゃん」
あっけらかんと笑う結愛。その無邪気な笑顔が、なぜか今はやけに眩しくて、俺は思わず目を逸らした。
「……とりあえず、髪乾かせよ。風邪引くぞ」
「あ、そうだ。悠真、ドライヤーやってー」
「はあ!? なんで俺が!」
「だって手が疲れちゃうんだもん。お願い、親友の頼み!」
結愛は俺の前に背を向け、床にペタンと座り込んだ。
仕方なくドライヤーのスイッチを入れ、彼女の髪を乾かし始める。指の間に絡む、細くて柔らかい髪。結愛の体温が、すぐ近くで感じられる。
「んふふ、あったかくて気持ちいい。悠真、美容師さんみたい」
「バカ言え。お前がズボラすぎるだけだ」
悪態をつきながらも、俺の心臓はさっきから妙なリズムを刻んでいた。
おかしい。こいつは結愛だ。ただのゲーム仲間で、一緒に弁当のおかずを取り合う「ダチ」だ。それなのに、どうしてこんなに緊張しているんだ?
「……ねえ、悠真」
ドライヤーの音に紛れるように、結愛がぽつりと呟いた。
「ん?」
「こうしてるとさ……なんか、本当に一緒に住んでるみたいだね」
「……」
ドキン、と心臓が大きく跳ねた。
結愛は振り返り、俺を見上げてニコリと笑った。
「ま、親友同士のルームシェアってのも、悪くないかもね!」
「……そうだな。お前が家事を全負担するなら考えてやるよ」
「えー! 悠真のケチ!」
俺はドライヤーの熱のせいにして、自分の顔が赤くなっているのを必死にごまかした。
この日、俺の心に「親友」という枠組みを揺るがす小さなバグが、確かに発生していた。でも、俺はそれに気づかないふりをして、夏休みの夜をやり過ごしたのだった。
季節は巡り、秋。学校は文化祭の準備で活気づいていた。
放課後、クラスの出し物である「お化け屋敷」の段ボールの壁を作りながら、俺はふと時計を見た。
結愛がいない。いつもなら「悠真ー! ガムテープどこー!?」と騒ぎながら俺の周りをウロチョロしているはずなのに、今日は放課後になってから姿を見ていなかった。
「なあ健太、結愛見なかったか?」
「ああ、星野なら、さっき3年の先輩に呼び出されて中庭の方に行ったぞ」
「先輩? 誰だそれ」
「バスケ部のイケメンキャプテン、沢田先輩だよ。ほら、星野ってああ見えて結構可愛いし、愛想いいから他学年でも人気あるんだぜ。絶対告白だろ、あれ」
「……は?」
俺の手から、ガムテープがポロリと落ちた。
結愛が、告白される? あの、ゲームしながらポテチの指でコントローラーを触ろうとして俺に怒られるような、あの結愛が?
「お、相馬。ついに親友(笑)を奪われる危機か? どうする、乗り込むか?」
健太がニヤニヤしながらからかってくる。
「バ、バカ言え! あいつに彼氏ができたら、俺のゲームの対戦相手がいなくなって困るだけだ。……ちょっと便所行ってくる」
俺は健太の声を背に、足早に教室を飛び出した。
中庭に向かう渡り廊下の陰に身を潜めると、大きな木のそばで向き合う二人の姿が見えた。背が高く爽やかな沢田先輩と、少し緊張した面持ちの結愛。
「星野さん、前からずっと気になってて……よかったら、俺と付き合ってくれないかな」
先輩のストレートな言葉が、風に乗って俺の耳に届く。
その瞬間、俺の胸の奥で、真っ黒でドロドロとした感情が渦巻くのを感じた。
(なんだよこれ……。結愛に彼氏ができるのは、親友として喜ばしいことだろ? なんで俺、こんなにイライラしてんだ?)
壁を強く握りしめる。結愛が「はい」と答えたら、もう俺の部屋で一緒にゲームをすることもなくなるのか。俺の弁当の唐揚げを奪いに来ることもなくなるのか。
……そんなの、絶対に嫌だ。
俺が思わず飛び出しそうになったその時、結愛の声が聞こえた。
「ごめんなさい、先輩」
「え……? 俺、何かダメなところあったかな?」
「いえ! 先輩はすごくカッコいいし、優しいと思います。でも……私、休みの日は一日中ゲームしていたいし、ご飯はオシャレなカフェよりコンビニのホットスナックが好きだし……。何より、一緒にいて一番楽しい『親友』がいるんです。その人といる時間が、今は一番大切なので」
結愛ははっきりと、迷いのない声でそう言った。
沢田先輩は少し寂しそうに笑うと、「そっか。彼氏じゃなくて、親友なんだね。でも、敵わないな。……ありがとう、気持ち聞かせてくれて」と言って立ち去った。
数十分後。俺が教室で何事もなかったかのように作業をしていると、結愛が「ただいまー!」と戻ってきた。
「おせーぞ結愛。サボりか?」
「ごめんごめん! ちょっと用事があってさ」
結愛は俺の隣に座り込み、段ボールの切れ端をいじり始めた。
「……あのさ、結愛」
「ん?」
「お前、なんか……告白されたらしいな」
俺が探るように聞くと、結愛は「あー、健太から聞いたの?」とあっけらかんと笑った。
「うん、バスケ部の先輩にね。でも、断っちゃった」
「……なんで? イケメンだったじゃん。彼氏欲しくないのか?」
俺は胸の奥の安堵感を隠しながら、あえて意地悪く聞いた。
「うーん。だってさ、彼氏ができたら、悠真と一緒にゲームする時間減っちゃうじゃん? あんなイケメン先輩の前で、ボサボサの髪でポテチ食べながらゾンビ撃てないでしょ」
「お前の断る理由、それかよ……」
「私にとっては超重要! 私は、気を使わないでバカ笑いできる悠真と一緒にいるのが一番楽しいもん。だって、私たち最高の親友でしょ?」
結愛はニカッと笑って、俺の肩をポンと叩いた。
「……そうだな。最高の親友、だしな」
俺も笑い返した。
でも、その時。俺の心の中にあった「親友」という言葉が、かつてないほど重く、そして少しだけ苦く感じられた。
俺はもう、結愛の隣に他の男がいるのを想像するだけで耐えられない。これはただの独占欲じゃない。俺は結愛を、ただの親友として見ていない。
このイライラの正体は、「嫉妬」だ。
俺はついに、自分の心の中に生まれた「バグ」の正体に気づいてしまったのだった。

冬。俺たちは修学旅行で、北国のスキー場を訪れていた。
見渡す限りの銀世界。冷たい空気が肺を満たす中、俺たちは当然のように二人一組のペアを組み、リフトに乗っていた。
「わあー! 悠真見て! 景色すっごい綺麗!」
スキーウェアに身を包んだ結愛は、興奮した様子で足をバタバタさせている。モコモコのウェアとニット帽のせいで、いつも以上に小動物感が増していて、なんだか無性に……可愛い。
「バカ、あんまり動くなよ。リフト揺れるだろ」
「大丈夫だって! あー、早く滑りたい! 悠真、絶対負けないからね!」
「お前、スキー初めてだって言ってただろ。格ゲーみたいにコマンド入力で滑れるわけじゃねえんだぞ」
「運動神経の良さを舐めないでよね!」
数分後。
「うわあああぁぁぁ! 悠真ぁぁぁ! 止まらないぃぃぃ!」
ゲレンデの初心者コースで、結愛は綺麗な「ハの字」を作ったまま、制御不能のミサイルと化して俺の方へ突っ込んできた。
「おいバカ! こっち来んな! 曲がれ!」
「無理無理無理! ブレーキのボタンどこ!?」
「これは現実だ! ボタンなんてねえよ!」
ドスッ! という鈍い音と共に、俺たちは雪まみれになって派手に転がった。
「いってて……。お前なぁ、人に突っ込むなよ」
俺が雪を払いながら起き上がると、俺の上に乗っかるような形で倒れ込んでいた結愛が、顔を上げてプッと吹き出した。
「あはは! 悠真、顔面雪だらけ! まるで雪男じゃん!」
「誰のせいだと思ってんだよ。ほら、立てるか?」
俺はため息をつきながら、グローブ越しの手を差し出した。
結愛はその手を掴むと、立ち上がる代わりに、イタズラっぽい笑みを浮かべてグイッと俺の腕を引っ張った。
「わっ!」
バランスを崩した俺は、再び雪の上に倒れ込む。今度は、結愛のすぐ隣に。
顔と顔が、触れ合いそうなほど近い距離。
冷たい雪の上なのに、結愛の吐く白い息が俺の頬に当たり、そこだけが異常に熱く感じた。
「……なにすんだよ」
俺が文句を言おうとすると、結愛はいつものおふざけモードとは違う、真剣な、それでいてどこか潤んだ瞳で俺を見つめていた。
「……ねえ、悠真」
「な、なんだよ」
「悠真ってさ……たまに、すっごくカッコいいよね」
「……は?」
予想外の言葉に、俺の思考が停止する。
「いや、いつもは口悪いし、ゲームでは容赦ないし、意地悪だけど……。私が困ってる時は絶対に助けてくれるし、なんだかんだ優しいし。……最近、悠真の顔が近くにあると、心臓がバクバクするんだよね」
結愛は自分の胸に手を当てながら、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。
「これって、不整脈かな? スキーのやりすぎ?」
「……病院行け。頭のな」
俺は必死にツッコミを入れながら、視線を逸らした。
だが、俺の心臓も、結愛以上に爆音を鳴らしている。
『心臓がバクバクする』。それは俺も同じだ。
結愛の無防備な笑顔を見るたびに、他の男と話しているのを見るたびに、俺の心臓はうるさいくらいに自己主張を繰り返している。
もう、誤魔化せない。
これは「親友」だからじゃない。「男同士のノリ」でもない。
俺は、星野結愛という一人の女の子が、死ぬほど好きなんだ。
「……ねえ、悠真は?」
「え?」
「悠真は、私と一緒にいて……ドキドキしたり、する?」
結愛が、不安と期待が入り混じったような声で尋ねてくる。
俺は一呼吸置き、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「……するよ。お前が思ってるより、ずっとな」
「……そっか。よかった。私だけが変な病気になったのかと思った」
結愛は安心したようにふわりと微笑み、俺の胸にコツンと頭を預けた。
雪の冷たさなんて、もう全く感じなかった。
この時、俺たちの間にあった「親友」という強固な壁に、決定的なヒビが入ったのだった。

12月24日。クリスマスイブ。
世間のカップルたちがイルミネーションの下で愛を囁き合うこの日、俺と結愛は、いつものように俺の部屋でコントローラーを握りしめていた。
テーブルの上には、Lサイズのデリバリーピザと、コンビニで買ってきたフライドチキン、そして2リットルのコーラ。
「よっしゃー! このボス倒したら、いよいよエンディングだよ!」
結愛はサンタ帽を被りながら、画面に向かって叫んでいる。
一見すれば、ただのゲーム好きの「親友」同士のクリスマスパーティーだ。去年も一昨年も、俺たちはこうして過ごしてきた。
でも、今年の俺は違う。俺は今日、このぬるま湯のような関係を終わらせる覚悟を決めていた。
「……結愛。ちょっとゲーム止めろ」
俺は自分のコントローラーをテーブルに置き、静かな声で言った。
「えー? なに言ってんの、あと少しで……」
「いいから。こっち向け」
俺の真剣な声のトーンに気づいたのか、結愛もピタリと動きを止め、不思議そうにこちらを振り向いた。
「なに? 改まって。ピザならまだ残ってるよ?」
「食べ物の話じゃねえよ」
俺は深く息を吸い込み、結愛の目を真っ直ぐに見た。
「結愛。俺たち、出会った日からずっと『最高の親友』って言ってきたよな」
「うん。今もそう思ってるよ? 悠真は私の、世界で一番の親友だよ」
結愛はコクリと頷く。その言葉が、以前なら心地よかったのに、今はひどく窮屈に感じた。
「俺は……もう、そうは思ってない」
「……え?」
結愛の目が大きく見開かれる。「親友じゃない」という言葉の真意を測りかねているようだった。
「誤解するなよ。嫌いになったわけじゃない。逆だ。……俺、お前のこと、ただのダチじゃなくて、一人の女として好きなんだ」
部屋の中が、水を打ったように静まり返った。
ゲームのBGMだけが、やけに虚しく響いている。
俺は言葉を続ける。
「一緒にゲームしてバカ笑いするのも楽しい。でも、他の男とお前が話してるのを見ると腹が立つし、お前が笑いかけてくれると、心臓が爆発しそうになる。……俺は、お前の彼氏になりたい。だから……『親友』、やめないか?」
言い切った。
もう後戻りはできない。もし結愛が「そんな風に見られない」と言ったら、この最高の関係は壊れてしまうかもしれない。その恐怖で、手のひらにじっとりと汗をかいていた。
結愛は俯いたまま、何も言わない。
沈黙が、永遠のように長く感じられた。
「……結愛?」
俺が名前を呼ぶと、結愛の肩がわずかに震え、ポタポタと膝の上に水滴が落ちた。
「……結愛!?」
「……バカ悠真」
結愛は顔を上げた。その目には、大粒の涙が溢れていた。
「遅いよ……。どんだけ待たせるのさ。私だって、ずっと前から……ただの親友じゃ、嫌だったんだから……っ」
結愛は袖で乱暴に涙を拭いながら、俺をポカポカと叩いた。
「スキーの時から、ずっと私がアピールしてたのに! 鈍感! ツッコミのくせにそういうところは全然気づかないんだから!」
「悪かったよ……。俺も、この関係が壊れるのが怖かったんだ」
俺は結愛の手を優しく掴み、そのまま自分の胸へと引き寄せた。
結愛は抵抗することなく、俺の腕の中にすっぽりと収まった。サンタ帽の先についた白いポンポンが、俺の顎をくすぐる。
「……悠真。これからは、親友じゃなくて、恋人だね」
「ああ。文句あるか?」
「ううん。最高。……でも、一つだけ条件がある」
結愛は俺の胸に顔を埋めたまま、もごもごと口を開いた。
「条件?」
「彼氏になっても……ゲームの手加減は絶対しないでね。私、悠真をボコボコにするのが夢だから」
「ははっ、上等だ。恋人だからって容赦しねえよ。一生俺の背中を追っかけてこい」
俺たちは見つめ合い、そして、どちらからともなく吹き出した。
「親友」という長すぎたセーブデータは、今日、「恋人」という新しいデータに上書きされた。
でも、俺たちの本質は何も変わらない。
最高のエンディングの後に待っていたのは、二人で歩む、新しいゲームのオープニングだった。
冬休みが明け、3学期が始まった。
晴れて「恋人」という称号を手に入れた俺たちは、今、学校へと続く通学路を並んで歩いている。
ただ一つ、今までと違うのは——。
「……なあ結愛。これ、本当にやるのか?」
「当然でしょ! 恋人同士の登校と言えば、手繋ぎはマストアイテムだよ!」
俺の右手は、結愛の左手としっかりと絡み合っていた。
いわゆる「恋人繋ぎ」というやつだ。結愛の手は小さくて少し冷たかったが、ギュッと握り返してくる力強さに、妙な愛おしさを感じる。
「なんか……照れるな、これ」
「悠真、顔赤いよー? もしかしてデレてる?」
「うるせえ。お前が無理やり引っ張ったからだろ」
「えへへ。だって、私の彼氏だもん。自慢したいじゃん」
結愛が満面の笑みを向けてくる。その笑顔の破壊力は、親友時代とは比べ物にならないくらい跳ね上がっていた。
教室に入ると、俺たちの繋がれた手を見たクラスメイトたちが一斉にざわめいた。
一番に駆け寄ってきたのは、悪友の健太だった。
「おっ、お前ら……! つ、ついにその手を繋ぐ日が来たのか!?」
健太は目を丸くし、大げさに天を仰いだ。
俺と結愛は顔を見合わせ、ニヤリと笑う。
「ああ。俺たち、最高に気が合う『恋人』になったわ」
「……やっとかよ!! お前らのじれったい茶番を見せられ続けた俺の身にもなれ! 赤飯炊いてやるよ!!」
健太の叫びに、クラス中から「おめでとー!」「遅すぎだろ!」という祝福とツッコミの嵐が巻き起こった。
放課後。
俺の部屋。
「悠真ー! ポテチのコンソメ味どこー!?」
結愛は俺のベッドに寝転がりながら、いつものように叫んだ。
「だからベッドの下の段ボールだって言ってるだろ! 何回言わせんだよ!」
「あった! さすが私の彼氏、気が利くー!」
結愛はバリバリとポテチを食べながら、コントローラーを起動する。
「ほら悠真、早く早く! 今日こそあの格ゲーでリベンジするんだから!」
「返り討ちにしてやるよ。俺の『ニンジャ・シャドウ』の恐ろしさを骨の髄まで教えてやる」
画面の中で、俺たちのキャラクターが激しくぶつかり合う。
「そこだぁ! 愛の必殺技!」
「愛で当たり判定が広がるかよ! 隙だらけだぜ!」
「うわあああ! また負けたぁぁぁ! 悠真のバカ! 彼氏なら少しは接待プレイしなさいよ!」
「勝負の世界に恋人も親友も関係ねえんだよ!」
ギャーギャーと言い合いながら、俺たちは腹を抱えて笑った。
関係の名前は「親友」から「恋人」に変わった。
でも、俺たちの空気感は、驚くほど何も変わっていなかった。
相変わらずゲームで本気で喧嘩して、弁当のおかずを奪い合い、バカなことで笑い転げる。
ただ、ゲームの合間にふと目が合った時、結愛が照れくさそうに笑って俺の肩に寄りかかってくることや、帰り道に当然のように手を繋ぐこと。それだけが新しく追加されたオプションだ。
「ねえ、悠真」
結愛がコントローラーを置き、俺の頬をツンツンと突いてきた。
「ん?」
「私、悠真の彼女になれて、本当に毎日楽しいよ。恋人になっても、私たちはずっと最高の親友だね」
「……バカ。親友以上だろ」
俺は結愛の頭をポンと撫で、そのままそっと引き寄せて、額に軽くキスを落とした。
「うわっ……! ちょっと悠真、急にそういうことするの反則……っ!」
結愛は顔を真っ赤にして、クッションに顔を埋めてバタバタと暴れた。
「ははっ、照れてやんの」
「照れてないし! もう一回勝負だ! 次は絶対勝つ!」
俺たちは、どう見ても最高のダチだ。
でも同時に、誰よりもお互いを理解し合っている、最高の恋人同士だ。
ゲームのコントローラーを握る俺の隣には、一生手放したくない、愛すべき俺の相方がいる。
この先、どんな無理ゲーみたいな困難が立ち塞がろうとも、こいつと一緒なら、笑いながらクリアしていける。
そう確信しながら、俺は再び画面に向かって「ラウンド1、ファイッ!」の合図と共に、新たな日常のプレイボタンを押したのだった。