
俺、相馬悠(そうまゆう)の大学生活は、極めて平穏で、そして極めて退屈なものになる予定だった。
入学して早々、特にやりたいこともなく、サークルにも入らず、ただ講義に出てはアパートに帰るだけの日々。
そんな俺の唯一の趣味といえば、駅前にある古びたゲームセンターで、格闘ゲームの筐体に向かうことくらいだった。
その日も俺は、いつも通り講義終わりにゲーセンへ直行し、お気に入りの格ゲー『ストリートファイターズ・バースト』の対戦台に座っていた。
平日の夕方ということもあり、客はまばら。CPU戦をだらだらと消化し、あくびを噛み殺していたその時だった。
『Here Comes A New Challenger!!』
画面に突如として赤い文字が乱舞し、対戦相手の乱入を告げる警告音が鳴り響いた。
「おっ」
俺は小さく声を漏らし、姿勢を正した。対戦台の向こう側に誰かが座った気配がする。
画面に表示されたのは、ゴリゴリのパワータイプキャラクター。俺が使っているのはスピードと手数で勝負するテクニカルキャラだ。
「お手並み拝見といきますか」
ラウンド1。
俺は牽制の小足からコンボを繋げようとしたが、相手の反応が異常に速い。
「は? 今のガードすんの?」
驚いたのも束の間、相手は強烈なコマンド投げからの起き攻めで、あっという間に俺の体力を削り切った。
「……マジかよ。こいつ、めっちゃ上手いぞ」
ラウンド2。
俺もゲーマーとしてのプライドがある。本気で画面に噛り付き、相手の癖を読み始めた。
飛び込みからのフェイント、下段の差し込み。ギリギリの攻防の末、なんとかラウンドを取り返す。
「よしっ!」
運命の最終ラウンド。
お互いの体力がドット単位まで削り合い、息詰まるような時間が流れた。
俺が放った起死回生の超必殺技。それを相手は完璧なタイミングで無敵技で返し、画面にはでかでかと『K.O.』の文字が浮かび上がった。
「くそっ、負けた!」
俺は思わず筐体を軽く叩き、天を仰いだ。だが、不思議と悔しさよりも、久々に本気の対戦ができた高揚感の方が勝っていた。
「いやー、いい勝負だった。対面、誰だ?」
俺は筐体の横から顔を出し、向こう側に座っている人物を確認した。
そこにいたのは、俺と同年代くらいの——ショートカットの小柄な女だった。
ダボっとしたオーバーサイズのパーカーに、色落ちしたデニム。キャップを後ろ被りにしており、一見するとボーイッシュな少年にも見える。
彼女はこちらに気づくと、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「おっつー! お前、なかなかいいコンボすんじゃん! あの起き攻めのフェイント、マジで引っかかりそうになったわ!」
「えっ……あ、女?」
俺が思わず素っ頓狂な声を上げると、彼女は不満げに眉をひそめた。
「はぁ? 今更!? どう見ても可憐な美少女だろうが!」
「可憐な美少女は、あんなえげつないコマンド投げ連発しねえよ! どこのゴリラかと思ったわ!」
「なんだとコラ! ゴリラとは失礼な! 私は計算し尽くされた知的なプレイングをだな……」
「嘘つけ! パワーでゴリ押ししてただけだろ!」
初対面だというのに、俺たちはなぜか自然と口喧嘩——いや、感想戦を始めていた。
彼女の名前は星野結衣(ほしのゆい)。俺と同じ大学の1年生だった。
そのままの流れで「奢るからもう一戦やろうぜ!」という結衣の言葉に乗り、俺たちは閉店時間までゲーセンで熱戦を繰り広げた。
「いやー、今日はマジで楽しかったわ! まさかこの街に私と互角に渡り合える猛者がいたとはな!」
ゲーセンを出た後、結衣は自販機で買ったコーラを豪快に飲み干しながら言った。
「互角って……トータルで見たら俺の勝ち越してたぞ」
「うるせえ! 最初のインパクトで私の実質的勝利だ!」
「なんだよその謎理論」
俺が呆れたように笑うと、結衣も釣られたようにケラケラと笑い出した。
「なー、悠。お前、この後暇?」
「暇だけど、明日も1限から講義だぞ」
「いいじゃん、サボれば! 近くのファミレスで朝までゲーム談義しようぜ!」
「……お前、初対面の男を深夜のファミレスに誘うって、危機感とかないの?」
「は? お前と? 恋愛フラグなんて、コマンド投げより判定シビアだわ! 私たちは今日から、熱い拳で語り合ったマブダチだろうが!」
「マブダチって……昭和かよ」
呆れつつも、俺は悪い気はしていなかった。
結衣と一緒にいると、なんだか肩の力が抜ける。まるで昔からつるんでいる地元の悪友と一緒にいるような、そんな居心地の良さがあった。
「しゃーねーな。朝まで付き合ってやるよ。その代わり、ドリンクバーはお前持ちな」
「よっしゃ! 交渉成立! 行くぞ相棒!」
結衣は俺の背中をバンバンと叩き、夜の街を歩き出した。
これが、俺と星野結衣——後に周囲から「絶対に付き合ってる」と誤解され続けることになる、最高の親友との出会いだった。
結衣と出会ってから1年が経ち、俺たちは大学2年生になっていた。
あの日以来、俺と結衣の「マブダチ」関係は完全に定着し、大学内でも常に一緒に行動するようになっていた。
昼休みの学生食堂。
今日も今日とて、俺の向かいの席には、山盛りの定食を前に満面の笑みを浮かべるアホな相棒が座っている。
「おい結衣。お前、それ食い過ぎだろ。ハンバーグ定食に、単品の唐揚げとカレーうどんって、フードファイターかよ」
俺が呆れ顔でツッコミを入れると、結衣は割り箸を割りながら得意げに胸を張った。
「甘いな悠。ハンバーグ、唐揚げ、カレー。これは学食における黄金のトライフォースだ。この3つを同時に摂取することで、午後の講義を乗り切る無限のパワーが得られるのだよ」
「その無限のパワー、いつも午後の講義で爆睡するのに使われてるよな」
「うっ……! そ、それは消化にエネルギーを持っていかれるという人体の神秘であってだな……もぐもぐ」
言い訳をしながらも、結衣は唐揚げを口いっぱいに頬張っている。リスみたいに膨らんだ両頬を見ていると、こいつが本当に「女子大生」という生き物なのか疑わしくなってくる。
「お前ら、今日も相変わらずだなー」
そこへ、共通の友人である健太がトレイを持ってやってきた。
「よお健太。相変わらずって何が?」
「いや、お前ら夫婦漫才みたいなやり取りばっかしてんなって思って。つーか、お前らいつ結婚すんの?」
健太の突然の爆弾発言に、俺は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「はあ!? け、結婚!? 俺と結衣が!?」
「いや、どう見ても付き合ってる雰囲気だろ。毎日一緒にいるし、講義もサボってゲーセン行くし。もう同棲レベルじゃん」
「ないないない!」
俺は激しく首を横に振った。
「こいつの中身、ただの男だぞ!? 恋愛感情なんて1ミリも湧かねえよ。なっ、結衣!」
俺が同意を求めると、結衣もカレーうどんの汁を飛ばしながら大きく頷いた。
「そうそう! 悠と恋愛とかマジでキモッ! 私たちベストフレンドだから! 男同士の熱い友情だから!」
「いや、お前一応女だろ……」
健太はドン引きしたような顔で俺たちを交互に見た後、ため息をついた。
「お前ら、絶対そのうち痛い目見るぞ。まぁいいや、俺はあっちの席行くわ。お幸せになー」
「だから違ぇっての!」
健太が去った後、俺と結衣は顔を見合わせて苦笑した。
「なんか、最近よく言われるよな。私たち付き合ってるって」
結衣がハンバーグを切り分けながら言う。
「お前が俺にベタベタしすぎるからだろ。少しは距離感考えろよ」
「はぁ? お前こそ、私の部屋に上がり込んで勝手に冷蔵庫のプリン食うのやめろよ! あれ楽しみにしてたのに!」
「あれは賞味期限切れそうだったから、俺が慈悲の心で処理してやったんだよ!」
「ふざけんな! プリンに賞味期限なんて概念はねぇ!」
「腹壊すぞアホ!」
そんな言い合いをしながらも、結局俺たちの休日は、どちらかの部屋に入り浸ってゲームをするか、漫画を読むかで終わっていく。
俺の部屋のベッドの上で、結衣がゴロゴロと寝転がりながら漫画を読んでいる光景なんて、もはや日常茶飯事だ。
「おい結衣、ベッドの上でポテチ食うな。カスが落ちるだろ」
「細けえ男だなー。モテないぞ?」
「お前にだけは言われたくねえよ」
「あ、この漫画の新刊出てるじゃん。悠、貸してー」
「勝手に読め」
結衣の無防備な姿を見ても、俺の心拍数は一切上がらない。
キャミソール姿でうろつかれても、「風邪引くぞ」とパーカーを投げつけるだけだ。
俺にとって結衣は、世界で一番気の合う「親友」だ。一緒にいると世界が全部ネタになるし、退屈なんて言葉は無縁になる。
この最高の友情関係は、この先もずっと変わらない。
そう、俺たちは固く信じていたのだ。

大学3年の春。俺の生活に、ちょっとした転機が訪れた。
住んでいたアパートの更新時期が近づき、大家から「建物の老朽化で取り壊すから、退去してほしい」と通告されたのだ。
新しい物件を探さなければならないが、敷金礼金や引っ越し費用を考えると、学生の身分にはかなり痛い出費だった。
「はぁ……マジでどうすっかなぁ」
学食でため息をつく俺を見て、向かいに座る結衣が唐揚げを咀嚼しながら首を傾げた。
「どしたの悠。そんなにシワ寄せてると、老けるぞ」
「うるせえ。アパート追い出されることになったんだよ。次の家探さなきゃなんだけど、金がなくてさ」
「ふーん……」
結衣はしばらく唐揚げを見つめながら何かを考えているようだったが、やがてポンッと手を打った。
「じゃあさ、私の部屋で一緒に住まね?」
「……は?」
俺は耳を疑った。
「いやいやいや、お前、何言ってんの?」
「だーかーらー、ルームシェアしようぜって言ってんの。うち、親戚の持ち物のマンションでさ、2LDKで無駄に広いんだよね。しかもルームシェア可! 家賃半分こにすれば、お互いめっちゃ浮くじゃん!」
「いや、そういう問題じゃなくて! 男と女が同棲って、どう考えてもヤバいだろ!」
「同棲じゃなくてルームシェア! 私たち、ただの親友っしょ? 男同士の合宿みたいなもんだって。それとも何? 悠は私と一緒に住んだら、理性が抑えられなくなって襲っちゃうかもってこと〜?」
結衣はニヤニヤしながら、俺の顔を覗き込んできた。
「んなわけあるか! お前みたいなゴリラ襲うくらいなら、そこらへんの電柱抱きしめるわ!」
「よし、言質取った! じゃあ決定な! 今週末引っ越し手伝ってやるから、ダンボールまとめとけよ!」
こうして、俺の意思は半ば無視される形で、結衣との同居——もとい、ルームシェア生活がスタートした。
引っ越し初日の夜。
荷解きもそこそこに、俺たちはリビングで缶ビール(俺たちはもう20歳を超えている)を開けていた。
「いやー、快適快適! これでいつでも対戦できるな!」
結衣は上機嫌でテレビの前に座り、ゲーム機のコントローラーを握っている。
「お前なぁ……少しは片付け手伝えよ」
俺が段ボールを畳みながら文句を言うと、結衣は「明日やる明日やる」と適当に手を振った。
同居生活が始まって数日。俺は結衣のあまりの無防備さに、頭を抱える日々を送っていた。
ある夜、俺がリビングでレポートを書いていると、風呂上がりの結衣が出てきた。
「ふはー、さっぱりしたー! 悠、冷蔵庫の麦茶取ってー」
「自分で取れよ……って、おい!」
振り返った俺は、思わず目を逸らした。
結衣はバスタオルで濡れた髪を拭きながら、ダボダボのTシャツに、下は短いショートパンツという姿だった。Tシャツの襟元からは、白い鎖骨やキャミソールの肩紐がチラ見えしている。
「なんだよ。麦茶くらい取ってくれてもいいじゃん」
「そうじゃねえよ! お前、少しは格好を気にしろ! 男が同居してるんだぞ!」
「えー? 減るもんじゃなし、いいじゃん。悠なんて私のこと男だと思ってんだから、実質男湯みたいなもんでしょ」
「理屈がおかしいだろ! 隠すもんは隠せ!」
俺がクッションを投げつけると、結衣は「いてっ! なにすんだよ!」と笑いながらキャッチした。
(いや、たしかに中身は男だけど、外見はちゃんと女なんだよな……)
濡れた髪から滴る水滴や、風呂上がりのほんのり赤い頬。
それを間近で見せられると、どうしても「女」を意識してしまう瞬間がある。
だが、俺はすぐに首を振ってその思考を打ち消した。
(いやいや、こいつはダチだ。最高の親友だ。変な気を起こしたら、この関係が壊れちまう)
「なー悠、レポート終わった? ホラーゲームの新作買ったから、一緒にやろうぜ!」
「お前、ホラー苦手なくせにまた買ったのかよ」
「一人じゃ無理だけど、お前がいれば大丈夫だ! ほら、早く早く!」
結衣が俺の腕を引っ張る。その時、彼女の柔らかい腕の感触が伝わってきて、俺はまた少しだけドギマギしてしまった。
「……わかったよ。すぐ行くから引っ張るな」
画面の中でゾンビが飛び出してくるたびに、「ぎゃあああ!」と叫んで俺の腕にしがみついてくる結衣。
「お前、密着しすぎ。腕動かせないだろ」
「うるさい! 今のはマジでビビったんだよ! ゾンビは物理攻撃効かないからダメなんだよ!」
「ゲームなんだから物理攻撃で倒せるだろ!」
そんな漫才みたいなやり取りをしながら、夜が更けていく。
ルームシェアという名の「終わらない合宿」は、俺の理性を少しずつ、だが確実に削り始めていた。
同居生活にもすっかり慣れた、大学3年の秋。
俺たちの関係に、ちょっとした「バグ」が発生した。
その日、リビングでくつろいでいた俺に、結衣がスマホを見せながらニヤニヤと笑いかけてきた。
「おい悠、聞け。ついに私にも春が到来したかもしれない」
「は? 春? お前の頭の中は年中お花畑だろ」
「違うわ! 恋愛的な意味の春だよ! 見ろ、これ!」
突き出されたスマホの画面には、メッセージアプリのトークルームが表示されていた。相手は、結衣が所属しているゼミの先輩らしい。名前は『藤井先輩』。
『今週末、もしよかったら水族館行かない? チケットもらったんだ』
というメッセージが光っている。
「……水族館?」
「そう! デートのお誘い! どうよ、私のこの女としての魅力に気づくとは、先輩もなかなか見る目があるな!」
結衣は得意げに鼻を鳴らした。
俺はなぜか、胸の奥がチクッとするのを感じた。
「へー、デートじゃん。おめでとう。どうせお前がガサツなことして、一日でフラれるオチだろうけどな」
努めて平坦な声で、いつものように憎まれ口を叩く。
「うっせーな! ちゃんと猫被るし! 私だってやればできる清楚系女子なんだからな!」
「清楚系女子は、布団の中でポテチ食って指舐めたりしねえよ」
「それはそれ、これはこれだ!」
週末。
結衣は朝からドタバタと準備をしていた。
いつもはパーカーにデニムという少年のような格好しかしないのに、今日は珍しく膝丈のスカートを履き、少しだけメイクもしている。
「どう? おかしくない?」
玄関でくるりと回って見せる結衣。正直、めちゃくちゃ似合っていた。可愛いと思ってしまった。
「……まぁ、遠目から見ればギリギリ人間には見えるんじゃね?」
「素直に褒めろや! じゃあ、行ってくるわ!」
「おう、せいぜいボロ出さないように気をつけろよ」
バタン、とドアが閉まる音がやけに響いた。
静かになった部屋に、俺は一人取り残された。
いつもなら結衣の騒がしい声や、ゲームのBGMが響いている部屋が、今日はやけに広く感じる。
「よし、今日は一人でじっくりゲームでもすっか」
俺はコントローラーを握り、お気に入りのRPGを起動した。
だが——。
(あいつ、今頃水族館着いたかな)
(イルカ見てはしゃいだりしてんのかな)
(先輩に愛想笑いとか、可愛い声出したりしてんのか?)
頭に浮かんでくるのは、藤井先輩とかいう見知らぬ男に向かって笑いかける結衣の顔ばかり。
「ああもうっ! 全然集中できねえ!」
俺はコントローラーを放り投げ、ソファに仰向けに倒れ込んだ。
なんだこの感情は。
ただの親友がデートに行ってるだけだぞ。喜んでやるのが筋じゃないか。
なのに、どうしてこんなにイライラするんだ。どうして、結衣の隣にいるのが俺じゃないことに、こんなにも腹が立つんだ。
「……俺、バグってんな」
自分の感情の正体に薄々気づきながらも、俺はそれを認めるのが怖かった。
認めてしまったら、今の心地よい関係が崩れてしまう気がしたからだ。
夜の8時。
ガチャリと玄関のドアが開き、「ただいまー」という疲れた声が響いた。
俺は慌ててソファから起き上がり、テレビに視線を向けたまま平然を装った。
「おー、おかえり。どうだったよ、清楚系女子の初デートは」
リビングに入ってきた結衣は、靴下を脱ぎ捨てながらソファにドサッと倒れ込んだ。
「……疲れた」
「なんだよ、フラれたのか?」
「フラれてはないけど……なんか、違うんだよね」
結衣は天井を見上げながら、ぽつりとこぼした。
「先輩、めっちゃ優しかったし、エスコートも完璧だったんだけどさ。私、ずっと猫被ってなきゃいけなくて。笑うタイミングとか、喋る言葉とか、全部気を使ってたら、全然楽しくなくて」
「まぁ、お前にはそういうの向いてないかもな」
「うん。水族館のイルカショー見てる時もさ、『あー、これ悠と来てたら、あのイルカのジャンプの軌道について絶対熱く語り合えるのになー』とか考えちゃってさ」
結衣はそこで体を起こし、俺の方を見た。
「なんかさ、やっぱりお前と家でゲームしてる方が、100倍楽しいわ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中にあったモヤモヤが、嘘みたいに晴れていくのを感じた。
嬉しさを隠しきれず、俺の口元が自然と緩む。
「お前、本当に色気ねーな。先輩が可哀想だわ」
「うるさい! 私は私の楽しいことを優先する主義なんだよ!」
結衣はそう言って、俺の隣に座り、コントローラーを手に取った。
「ほら、悠! 対戦やろうぜ! 今日のストレス全部お前にぶつけてやる!」
「上等だ。返り討ちにしてやるよ」
画面に向かって笑い合う結衣の横顔を見ながら、俺は確信した。
こいつといるのが、一番居心地がいい。
そして、他の誰にも、こいつの隣を譲りたくない。
俺はもう、「親友」という言葉で自分の気持ちに蓋をすることが、できなくなっていた。
季節は巡り、大学4年の春。
就職活動も本格化し、俺たちはお互いにスーツを着て家を出る日が増えていた。
そんなある日、俺は不覚にも高熱を出して寝込んでしまった。連日の面接やエントリーシートの作成で、知らず知らずのうちに疲労が溜まっていたのだろう。
「はぁ……マジでしんどい……」
ベッドの中でうなされていると、ガチャリと部屋のドアが開いた。
「おい悠、生きてるかー?」
ひょっこりと顔を出したのは、スーツ姿の結衣だった。面接から帰ってきたばかりらしい。
「……生きてるけど、死にそう……」
「大袈裟だなー。熱何度あんの?」
結衣は俺の額に手を当てた。普段の彼女からは想像もつかないくらい、ひんやりとして優しい手つきだった。
「うわ、めっちゃ熱いじゃん。バカでも風邪引くんだな」
「うるせえ……バカはお前だろ……」
「減らず口叩けるなら大丈夫そうだな。ちょっと待ってろ、なんか作ってやるから」
結衣はそう言って部屋を出て行くと、しばらくして、キッチンからカチャカチャと不器用な音が聞こえてきた。
(あいつ、料理なんてろくにできないのに……)
不安になりながらも、熱で重い瞼を閉じていると、やがていい匂いが漂ってきた。
「ほら、悠。起きれるか? うどん作ってやったぞ」
結衣が持ってきたのは、卵とネギがたっぷり入った煮込みうどんだった。少し形は不格好だが、湯気が立っていて美味しそうだ。
「……お前、こんなの作れたんだな」
「失礼な! 私だってクック○ッド見ればこれくらい余裕だわ!」
俺が体を起こすと、結衣は「ほら、あーん」とふざけてうどんを口元に運んできた。
「バカ、自分で食えるわ」
「いいから! 弱ってる時くらい、大人しく看病されとけっての!」
強引に口に入れられたうどんは、少し味が濃かったが、冷え切った体に染み渡るように美味しかった。
「……美味い」
「だろ? 私の愛情たっぷりだからな!」
普段なら「キモい」と返すところだが、今の俺にはそんな気力もなく、ただ黙ってうどんを啜った。
食後、結衣は氷枕を新しくしてくれたり、スポーツドリンクを枕元に置いてくれたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
「なんだよ、お前も一応、女の子らしいことできるんじゃん」
俺がポツリと言うと、結衣は少し照れたように鼻の頭を掻いた。
「当たり前だろ。親友が死にかけてたら、これくらいするわ」
『親友』。
その言葉が、今の俺にはひどく重く、そしてもどかしく感じられた。
結衣がベッドの横に座り、スマホをいじっている。その横顔を、俺はぼんやりと見つめた。
少しだけ伸びた髪。長いまつ毛。真剣な眼差し。
普段はガサツで男勝りな彼女の、ふとした瞬間に見せる「女の子」の部分。
それに気づいてしまった時から、俺の心臓は彼女の一挙一動に振り回されっぱなしだ。
(あー……俺、こいつのこと、好きだわ)
熱のせいかもしれないが、俺の頭の中は驚くほどクリアだった。
結衣のことが好きだ。親友としてではなく、一人の女として。
他の男と笑い合っているのを見るのは嫌だし、こうして俺だけに向けてくれる優しさを、ずっと独り占めしたい。
「……結衣」
「ん? どした? まだなんか食うか?」
結衣が顔を覗き込んでくる。その顔が近くて、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
「……いや、なんでもない。サンキュ」
「なんだよ、気色悪いな。早く寝て治せよ」
結衣は笑って、俺の布団を掛け直してくれた。
俺は目を閉じながら、深く息を吐いた。
自覚してしまった。完全に。
だが、この気持ちを伝えることは、同時にこの「最高の友情」を壊すリスクを伴う。
もし告白して、「気持ち悪い」と引かれたら?
今の、何でも言い合えて、一緒にゲームをして笑い合えるこの距離感がなくなってしまうとしたら?
それは、俺にとって何よりも恐ろしいことだった。
「最高の親友」という関係は、俺たちを繋ぎ止める最強の絆であると同時に、一歩を踏み出すことを躊躇わせる、重い枷でもあった。
大学4年の冬。
俺たちはお互いに内定をもらい、無事に卒業が決まっていた。
俺は都内のIT企業へ、結衣はゲームの制作会社へ。
社会人になっても、このまま一緒にルームシェアを続けるかどうかの話は、まだどちらからも切り出せずにいた。
12月の終わり。
外は雪がチラつく寒さの中、俺たちはいつものようにリビングのこたつに入り、並んでゲームをしていた。
「あー! くそっ、また負けた! 悠、お前今日強すぎだろ!」
コントローラーをこたつの上に投げ出し、結衣が悔しそうに叫ぶ。
「お前が単調な攻めしかしないからだろ。もっと頭使えよ」
「うるせー! 脳筋プレイこそ至高だ!」
いつものやり取り。いつもの笑い声。
だが、俺の心の中には、ずっと焦りがあった。
このまま卒業して、社会人になって。
もし結衣に、本当に好きな奴ができたら?
あるいは、俺が別の場所に転勤になって、離れ離れになってしまったら?
「親友」のままでは、彼女を引き留める権利なんて、俺にはないのだ。
「なー、悠」
ふと、結衣がテレビ画面から目を逸らし、こたつに突っ伏しながら言った。
「私たち、社会人になっても、ずっとこのままでいような。休みの日は一緒にゲームして、バカなこと言ってさ。お前は私の、一生の親友だからな!」
結衣は無邪気に笑って、俺の肩をポンと叩いた。
『親友』。
またその言葉だ。
俺はコントローラーを置き、深く深呼吸をした。
もう、逃げない。この関係を壊すのが怖くても、それ以上に、こいつを他の誰かに奪われることの方が、俺にとっては耐えられない。
「……結衣」
俺の真剣な声のトーンに気づいたのか、結衣も不思議そうな顔でこちらを向いた。
「ん? どした? 急に真面目な顔して」
「俺、お前のこと、親友だと思ってない」
静寂。
部屋の中には、テレビから流れるゲームのBGMだけが響いていた。
結衣の顔から、スッと笑顔が消える。
「……は? え、なになに、急に絶交宣言? 私、お前のプリン勝手に食ったのまだ根に持ってんの?」
「違う。そうじゃなくて」
俺は結衣の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺、お前のことが好きだ。親友としてじゃなくて、女として」
結衣の動きが、ピタリと止まった。
目は見開かれ、口は半開きになり、まるで時間が停止したかのように固まっている。
「……え?」
「だから、好きだって言ってんの。他の男と出かけるって聞いた時、めっちゃムカついたし。お前が俺のためにうどん作ってくれた時、本気で可愛いって思った。俺は、お前と恋人になりたい」
言い切った。
心臓が破裂しそうなくらい早鐘を打っている。
結衣は数秒間フリーズした後、顔をボッと真っ赤にして、両手で顔を覆った。
「……お、お前……それ、マジで言ってんの……?」
「マジだ。漫才みたいな言い合いも、徹夜でのゲームも、これから先、一生お前とやりたい」
結衣は顔を覆ったまま、ぷるぷると震えていた。
拒絶されるのか。笑い飛ばされるのか。
俺が唾を飲み込んで次の言葉を待っていると、結衣は指の隙間からこちらをチラリと見て、小さな声で言った。
「……バグじゃん」
「は?」
「だから、バグだろって言ってんの! ……私だって、最近悠のことばっか目で追ってて、他の女と喋ってるとモヤモヤするし……私、頭おかしくなったのかと思ってたのに……」
結衣は両手を下ろし、真っ赤な顔で俺を睨みつけた。
「お前も同じ気持ちだったとか……マジでバグじゃねーか!」
その言葉の意味を理解した瞬間、俺の体から一気に力が抜けた。
「……なんだよそれ。じゃあ、両思いってことでいいのか?」
「……しゃーないから、付き合ってやるよ。この私を彼女にできるなんて、お前、SSR引いたようなもんだからな!」
照れ隠しのように胸を張る結衣を見て、俺はたまらず吹き出した。
「SSRって……どっちかというと、呪いの装備だろ」
「なんだとコラ! 初日から彼女に向かって呪いとはいい度胸だな!」
俺たちは顔を見合わせ、そして、二人で声を出して笑った。
関係は変わった。だが、俺たちの根底にあるものは、何も変わらない。
こうして、俺と結衣の「バグ」は、正式に「仕様」としてアップデートされたのだった。

大学を卒業し、俺たちが社会人になってから半年が経った。
俺たちは今でも、あの2LDKの部屋で一緒に暮らしている。
ただし、「ルームシェアをする親友」としてではなく、「同棲する恋人」として。
秋の休日の昼下がり。
俺たちは久しぶりに二人揃って休みが取れ、駅前の繁華街へと出かけていた。
名目は「初デート」。
だが、行き先はオシャレなカフェでも映画館でもなく、俺たちが出会ったあの古びたゲームセンターだった。
「よっしゃあ! 今日こそ私の連勝記録を伸ばしてやるからな!」
腕まくりをして気合を入れる結衣。服装は相変わらずパーカーにデニムだが、少しだけメイクをしているのは、彼女なりのデートの気合いなのだろう。
「寝言は寝て言え。社会の荒波に揉まれて反射神経の鈍ったお前に、俺が負けるわけねーだろ」
「言うねぇ! じゃあ負けた方が今日の夕飯奢りな!」
「乗った!」
結果は、俺の圧勝だった。
「くそーっ! なんであそこで無敵技擦るんだよ! 読まれてるってわかんなかった私のアホ!」
ゲーセンを出た後、結衣は悔しそうに頭を抱えながら歩いていた。
「だから言ったろ、俺の方が上だって。夕飯、焼肉な」
「うぅ……私の財布が火の車に……」
そんなやり取りをしながら歩く帰り道。
夕暮れの街は、カップルや家族連れで賑わっていた。
俺は隣を歩く結衣の右手をチラリと見た。
(……恋人同士なんだから、手くらい繋ぐべきか?)
付き合い始めて半年経つが、家の中では相変わらずのノリで過ごしているため、外で「恋人らしいこと」をするのは、実はまだちょっとハードルが高かったりする。
俺は意を決して、歩きながら結衣の右手に、自分の左手をそっと重ねた。
「……ん?」
結衣が驚いたようにこちらを見上げる。
俺は前を向いたまま、少し強引に彼女の指に自分の指を絡め、手を繋いだ。
「な、なにすんだよ急に」
結衣の声が裏返っている。見なくても、顔が赤くなっているのがわかる。
「別に。デートなんだから、手くらい繋ぐだろ」
「……なんか、めっちゃ恥ずいんだけど! 私たち、そういうキャラじゃないじゃん!」
「俺だって恥ずいよ! でも、恋人なんだからこれくらい普通だろ!」
「普通ってなんだよ! あーもう、手汗かいたらごめんからな!」
文句を言いながらも、結衣は繋いだ手を振り払おうとはしなかった。
むしろ、少しだけギュッと握り返してくる力が伝わってきて、俺の顔まで熱くなってくる。
「あ、あれ、相馬と星野じゃね?」
不意に、前方から声をかけられた。
顔を上げると、大学時代の友人である健太が、彼女らしき女性と一緒に歩いてくるのが見えた。
俺たちは慌てて繋いでいた手を離そうとしたが、健太のニヤニヤした視線は完全に俺たちの手を捉えていた。
「お前ら、やっぱり付き合ってたのかよ! 大学の時から絶対そうだと思ってたんだよなー!」
健太が指を差して笑う。
「い、いや、これはその……」
俺がしどろもどろになっていると、隣で結衣が堂々と胸を張って言い放った。
「当たり前だろ! 私たちは最強の親友で、最高の恋人だからな!」
その言葉に、健太は「はいはい、ごちそうさま」と呆れたように笑い、去っていった。
俺は赤面しながら結衣を見た。
「お前……自分で言ってて恥ずかしくないのかよ」
「恥ずかしいに決まってんだろ! でも、本当のことじゃん!」
結衣は真っ赤な顔で俺を睨みつけ、そして、自分からもう一度俺の手をギュッと握ってきた。
「ほら、行くぞ悠! 焼肉食い放題で、お前の財布も火の車にしてやるからな!」
「あ、おい! 奢るのはお前だろ!」
夕日に照らされた街を、俺たちは手を繋いで駆け出していく。
「付き合ってるでしょ」と言われ続け、「親友だし」と返し続けた俺たち。
回り道もしたし、バグも起きたけれど。
隣で笑うこいつの顔を見ていると、俺たちの関係は、これで完璧なんだと心から思える。
俺たちは、最高に気が合う親友で——最強の恋人だ。
【完】